日露戦争と第一連隊

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 明治三七年(一九〇四)二月六日の日露間における国交断絶宣言により、第一・第三・第四師団および野戦砲兵第一旅団と兵站部をもって奥保鞏を司令官とする第二軍の編制が命ぜられ、動員が行われた。以下、『歩兵第一聯隊史』および『歩兵第一聯隊歴史』に基づき、歩兵第一連隊の日露戦争における動向を略述する。第一連隊は三月一二日に動員を完了すると一九日に新橋駅を発して、二二日には広島に到着した。その後、四月二二日に宇品を出港し、二七日に平壌の外港である鎮南甫に上陸した。第二軍は遼東半島の攻略を主任務としたため、五月五日に鎮南甫を出港して翌六日に遼東半島に上陸した。
 五月一五日に金州城近郊の十三里台子(だいし)でロシア軍と戦闘を交え、翌一六日にはロシア軍を撃退して同地を占領している。
 その後、第二軍は金州城および南山の攻略を計画し、海軍艦艇の艦砲射撃の支援のもとで南山の攻略を予定していたが、激しい風浪のため海軍の支援を得ることができず、陸軍単独による攻略が決定され、五月二六日未明より、第一連隊は金州城の攻撃に向かった。ロシア軍の反撃を制して同日に金州城を占領したのち、翌二七日からは南山の攻略を開始した。掩体壕(えんたいごう)などの防御施設に拠るロシア軍の抵抗は激しく、砲兵による支援砲撃も十分な成果を得られなかったことから、遂にロシア軍陣地に対する突撃が敢行された。これにより、南山のロシア軍陣地の占領に成功したが、小原正恒(おはらまさつね)連隊長自身も負傷し入院を余儀なくされるなど、多くの死傷者を出した上での占領となった。なお、第一連隊の死傷者数は、第二軍中においても最多を占めるほどの状況であった。また、金州城における戦闘で、乃木希典の長男で小隊長を務めていた乃木勝典(かつすけ)が戦死している。
 南山の攻略後、第一連隊の上級部隊である第一師団は、第二軍から乃木を司令官とする第三軍に編入された。第三軍は旅順要塞の攻略を主任務として激戦を繰り広げ、多くの損害を出したことで知られている。
 七月二六日に第三軍は旅順要塞の前進陣地への攻撃を開始し、第一連隊は双台溝のロシア軍陣地の攻撃にあたった。双台溝のロシア軍陣地を突破した後、三〇日には泥河子のロシア軍に対する攻撃を行うなど、連隊の戦闘は続いた。八月一三日夜半より、于大山のロシア軍陣地を夜襲してこれを占領すると、防御陣地の構築を進めてロシア軍の反撃に備えた。
 八月一九日には第一回の旅順要塞攻撃が実施され、ロシア軍の砲撃による被害が続出したが、攻撃を続行して連隊主力による青石根山(鉢巻山)山頂の占領に成功した。しかし、山頂に防御陣地を構築する暇もなくロシア軍による猛烈な反撃を受け、山頂の防衛に当たった第二大隊・第三大隊は八〇〇名以上の死傷者を出す大損害を受けながらも、山頂の維持に成功した。
 続いて、第一連隊は九月一九日より南山坡山(みなみさんぱざん)(海鼠(なまこ)山)のロシア軍陣地の攻撃にあたり、二〇日にはロシア軍陣地の占領に成功している。なお、同日、前線視察のために海鼠山陣地を訪れた山本信行第一旅団長は、ロシア軍に狙撃されて戦死している。
 第一連隊は、既述のように、鉢巻山における戦闘などにおいて合計九〇〇名余りの死傷者を出し、八月一三日に約四〇〇名の補充兵が到着したが、海鼠山の戦闘でさらに三〇〇名余りの死傷者を出すなど、一時は定員の三分の一まで兵力を減じていた。その後、九月二一日に約二五〇名、一一月二〇日に約四〇〇名の補充兵が到着して戦力を回復している。第一連隊は、一〇月二六日に開始された第二回総攻撃には本格的な参加はせず、一一月二七日に開始された第三回総攻撃に再び加わるのである。
 部隊が出征すると、衛戍地には予備役の将兵を中心として留守部隊が設置される。留守部隊が新兵の徴募や教育・訓練、予備役などの将兵の召集などを引き続き行っているため、前線の部隊に対して兵力の補充が可能となるのである。日清戦争に比して犠牲が続出している日露戦争では、こうした前線の部隊への兵力の補充も重要な課題であった。
 一一月二六日から開始された第三回総攻撃では、いわゆる二〇三高地をめぐる戦闘が展開された。二八糎(せんち)榴弾砲による準備砲撃の後に寺田錫類(しゃくるい)連隊長自らが陣頭に立って歩兵部隊による突撃が行われたが、ロシア軍の猛烈な反撃を受けて死傷者が続出し、寺田自身も重傷を負い、その傷が元で亡くなっている。二〇三高地に対する攻撃は、一一月二八日に一時同地を占領することに成功するが、間もなくロシア軍に奪還され、激戦が続いた。その結果、連隊は壊滅的打撃を受け、一時は軍旗の護衛兵さえも欠く状況となった。二〇三高地は新たに投入された第七師団の攻撃によって一二月六日に陥落するが、連隊は一六日に新たに生田目新(なまためしん)連隊長と約三八五名の補充兵を迎えたことで戦力を回復した。
 二〇三高地占領後、日本軍は旅順要塞の防塁を次々と陥落させ、明治三八年(一九〇五)一月一日、ついにロシア軍司令官ステッセルが降伏し、五日の水師営における乃木とステッセルの会見で旅順要塞の攻略は完了した。
 一方、満州方面では日露両軍の主力による決戦が準備されていたため、旅順要塞攻略後の第三軍も満州への移動と決戦への参加が命じられた。一月一九日には、第一連隊は北上を開始するとともに、二月中には、約四〇〇名の補充兵と士官などが加わって兵力の回復が進められた。
 二月二七日に奉天攻撃の命令が下ると部隊は北進を続けて三月二日に拉木河(らぼくが)に到達した。拉木河においてロシア軍と交戦すると、鄧密荒(とうみつこう)、八家子(はちかし)、高力屯(こうりょくとん)、弓匠屯(きゅうしょうとん)、田義屯(でんぎとん)、三台子(さんだいし)と、以後、一〇日に至るまで連日戦闘が続いた。一〇日に日本軍が奉天(ほうてん)を占領すると、第一連隊も追撃戦に移った。一四日には約六〇〇名の補充兵が到着して戦力を回復すると、連隊は鉄嶺(てつれい)へと進軍した。さらに四月一日には昌図(しょうと)に到着してその守備にあたったが、二二日から二四日にかけてロシア軍による強力な反撃を受けた。これを撃退したのち、五月一一日に連隊は第三軍の予備隊となり、最前線を離れて法庫門に駐屯したが、その間に、士官七名と下士官および兵八三八名の補充を受け、戦力の再編に努めた。以後、連隊は大規模な戦闘などもなく九月一五日の停戦を迎え、翌三九年一月一七日に帰国の途につき、三〇日に赤坂の衛戍地に凱旋した。