日露戦争と第三連隊

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 第三連隊も、第一連隊と同様に明治三七年(一九〇四)三月六日の動発第一〇号ノ二動員令を受けて部隊の動員が開始され、四月一日には麻布の衛戍地を発して広島に向かうが、以下、『歩兵第三聯隊史』に基づき、歩兵第三連隊の日露戦争における動向を略述する。第三連隊は三月二二日、二三日の両日にかけて宇品を出港し、五月一二日に遼東半島の張家屯への上陸を完了した。上陸後は、第一連隊とともに一五日に十三里台子でロシア軍と戦火を交えてこれを撃退し、さらに南山の攻略に向かった。第三連隊は、第二軍の予備戦力として控置されていたため、南山において本格的に戦闘に加わることになった。第一・第二大隊は、遮蔽(しゃへい)物のないなかをロシア軍の機銃掃射を受けながら突撃し、ついにはロシア軍陣地の占領に成功したが、この戦闘で八五名の戦死者と二五七名の負傷者を出すなど、多大な犠牲を生じている。
 その後、五月二九日に上級部隊である第一師団が第三軍に編入されたことで、第三連隊は旅順要塞の攻略任務に就くことになった。七月二六日に旅順要塞の前進陣地に対する攻撃が開始され、三〇日にかけて連隊は、石山溝南方高地や土城子、火石稜北方高地など、各前進陣地の攻略に成功した。
 八月一九日に開始された旅順要塞に対する第一回総攻撃では、第三連隊は第一連隊の左翼を占めて、水師営第一堡塁(ほうるい)に対する攻撃を行った。しかし、ロシア軍の激しい反撃により目標の変更を余儀なくされたが、二〇日には水師営大西溝と九三高地南方の堡塁の占領に成功した。九三高地に対するロシア軍の反撃を受けるなど激戦が続き、この二日間の戦闘で連隊は戦死者九四名、負傷者四二一名を数えるに至る損害を受けた。
 九月一九日に始まる第二回総攻撃では、第三連隊は再び水師営堡塁の攻略に当たった。一九日の攻撃はロシア軍に撃退されたが、第一・第三大隊を中核とする部隊は二〇日未明より攻撃を再開した。水師営堡塁をめぐる日露両軍の攻防は再び激戦となり、連隊の軍旗が至近弾を受けるほどの戦闘となったが、同日午前七時に第四堡塁を、九時二〇分には第一堡塁をそれぞれ占領することに成功し、正午までには水師営の四つの堡塁のすべてを占領した。なお、この戦闘においても連隊は、戦死者一三一名、負傷者三七九名と多大な損害を受けている。
 一一月二六日に開始された第三回総攻撃では、第三連隊は三里橋北方堡塁の攻略にあたることになったが、第一・第二大隊を中核とした攻撃部隊は、このときもロシア軍の激しい反撃を受けた。とくに、第一大隊所属の第三中隊ではすべての将校が死傷して戦闘不能になるなど、大きな損害を受けている。また、第三回総攻撃にあたっては、中村覚第二旅団長が直率する「白襷隊(しろだすきたい)」として知られる斬り込み隊が編制され、各連隊から二〇〇名余りの選抜兵が参加した。「白襷隊」は旅順要塞第四砲台への突撃を敢行して勇戦したが、死傷者が続出したため、軍司令官である乃木希典の命令により退却となった。なお、生還したのは三分の一に過ぎなかったという。第三回総攻撃における第三連隊の死傷者は、戦死一五三名、負傷三六四名に及んだ。
 明治三八年(一九〇五)一月一日の旅順要塞陥落後、満州方面での決戦準備のために第三軍も満州への移動と決戦への参加が命ぜられたのは既述のとおりである。第三連隊は一月二二日に旅順を出発し、二月一九日には黄土炊に到着した。二六日には、第一大隊が騎兵第二旅団の支援のためにその指揮下に入ったが、残る第二・第三大隊は奉天近郊での戦闘に加わった。
 三月八日に、第二・第三大隊は観音屯のロシア軍攻撃にあたり、九日の激戦で第二大隊は部隊の四分の三を失うほどの損害を受けたが、翌一〇日に観音屯および文官屯の占領に成功した。奉天会戦における第三連隊の損害は、戦死二五五名、負傷五八二名と日露戦争における各戦闘のなかで最多となっている。
 奉天会戦以降、連隊は各地を転戦するが、日露両軍ともに奉天会戦における損害によって積極的な戦闘を行うことが困難となったこともあり、大規模な戦闘に遭遇することなく、九月一五日の停戦を迎えた。翌三九年一月一九日に帰国の途についた第三連隊は、二月四日に全部隊が麻布の衛戍地に帰還し、翌五日に復員が命ぜられ、動員が解除された。
 なお、『芝区誌』には、二六〇名に及ぶ日露戦争での区民の戦死および戦病死者の氏名や所属部隊などが記されているが、第一次世界大戦が二名、満州事変が六名、昭和一二年末(一九三七)までの日中戦争における戦死者が一二名であることと比較すると、港区域における日露戦争の人的損害がいかに大きいものであったかがわかる。(門松秀樹)