農畜産業の消滅と海の利用の変化

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 東京市内では、農業経営を中心とした農地利用は減少し、農家戸数は、第一次世界大戦後の大正八年(一九一九)に本郷区で二戸、深川区で一六戸を残すのみであった。港区域では、地目として若干の畑が残っていたが、ほとんどが商業地、工業地、住宅地として利用されており、第一次世界大戦頃に農業利用が消滅したと推測できる。
 明治後期に東京市内の牛乳生産・販売の中心であった港区域では、大正初期に産業としてのピークを迎えていた。大正二年に芝区で二二〇頭、麻布区で二〇頭の牛が飼育されていた。しかし、第一次世界大戦期に大きく減少し、大正八年には芝区で九四頭、麻布区では飼われなくなった。これは、第一次世界大戦期の市街地化の影響に加え、房総半島で生産された牛乳が東京市内に進出し、競争が激化した影響であった。加えて、牛乳の衛生面からの規制によって、牛を飼育しながら搾乳し販売する方法から、ミルクプラントを設立して周辺地域から生乳を仕入れる方法へと東京市内の牛乳製造・販売業の性格が変化したためでもある。関東大震災以後、芝区だけではなく東京市内から牛がほとんど姿を消すことになったのである。
 漁業は、京橋区、芝区、深川区を中心に展開し、一九一〇年代初頭には東京市内で漁業に関わる従事者は、専業・兼業を含め戸数約六〇〇から七〇〇戸、従事者一二〇〇から一三〇〇人程度であった。明治四五年(大正元・一九一二)の京橋区、芝区、深川区の戸数はそれぞれ二二〇、一五二、三六二戸で、三区のなかでは芝区の従事者数は少なく、漁獲物の価格でも明治四五年(大正元年)に京橋区が四万六三一五円、深川区が五万一七六〇円に対して、芝区は一万六七二二円であった。ただ、年ごとに漁獲量や価格の変動は大きく、明治四五年(大正元年)一万六七二二円から、大正三年一万七九三〇円、大正六年二万七七一〇円と推移していた。魚種はクロダイ、スズキ、ボラ、ウナギ、ハゼ、カキ、アサリ、ハマグリなど多岐に及んでいた。  (高柳友彦)