ここで、芝公園や芝離宮のバラックの概要を確認してみよう。芝公園では増上寺が、芝離宮では救世軍が、運営しともに託児所が設置されていた。託児所以外にも診療所や学校も設けられるなど、生活していくうえで欠かせない施設が整えられていた。焼失した地域も広く復旧には多くの時間が必要で、芝公園、芝離宮のバラックでは、翌大正一三年(一九二四)一月においても、それぞれ三七九六人、五五九一人が収容されていた。こうしたバラックは、同年二月末の調査で、行政が建設したバラックも含めて、芝区で一万一二四戸、麻布区で一三八戸、赤坂区で一三九三戸を数えた。またバラックなどの仮建築物は、その後の人口回復にも影響を与えた。震災直後、東京市外に避難していた罹災者のなかには、焼け出された旧住所に復帰する者もあらわれるようになった。震災二か月後の一〇月三〇日には、東京市で焼跡に復帰した戸数は八万六一三二戸、人口は四二万一〇七二人であった。この一〇月三〇日から五日間だけで四二九五戸、三万三三〇人が復帰するなど、大正一三年二月までに一五万二六九三戸、七二万一四九一人に達していた。
表3―1―2―1は、震災前後の市勢調査と国勢調査から港区域とその周辺四区の人口を表したものである。芝区の人口は震災直後に一〇パーセント以上減少し、その後一定の回復がみられていた。この点、日本橋区や京橋区、本所区、深川区など被害が大きかった区の人口はなかなか回復せず、大正一四年の人口は大正九年のマイナス一〇~二〇パーセントほどであった。その点でも、芝区の人口回復は早かったことがうかがえる。一方、麻布区は震災直後、被害の少なさから人口が急増した。赤坂区も同様に震災前の人口をほぼ維持していた。本格的な復旧や人口の回復は一九三〇年代に実現していくこととなる。
表3―1―2―1 震災前後の人口動態
東京市編『東京市市勢統計原表』(東京市、1927)、内閣統計局編『国勢調査報告 昭和10年 第2巻 府県編 東京府』(東京統計協会、1937)をもとに作成