被害への対応と復興

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 震災による揺れとその後の火災によって東京市中心部の多くの家屋が全焼、倒壊した。港区域でも芝区で全焼一万六四一四戸、全壊九九二戸、麻布区で全焼一三戸、全壊五〇九戸、赤坂区で全焼二三二二戸、全壊二六九戸を数え、多くの住民が住む家や職場を失った。震災直後から区内の公園や寺社には多くの人々が避難した。震災四日後の九月五日には、増上寺で二〇〇〇人、芝公園に六七三〇人、芝小学校や慶應義塾大学などに二一四四人、また日出町では一万人を数えるなど、芝区内だけで二万人を超える人々が避難を余儀なくされた。翌週の一二日には、区内の小学校や寺社など五八か所に救護所が設置され、約一万六〇〇〇人が収容された。こうした人々へ仮住まいの場を提供するため、九月一五日には緊急勅令によって市街地建築物法を適用しない建築物が許可された(大正一三年〈一九二四〉二月末日までに着手して昭和三年〈一九二八〉八月末日までに取り壊す建物が対象)。以後、市内には多くのバラックが建設された。芝公園や芝離宮には、内務省の直営、東京府委任、東京市請負とそれぞれの運営主体の異なるバラックが建設され、一万人を超える人々が収容された。
 ここで、芝公園や芝離宮のバラックの概要を確認してみよう。芝公園では増上寺が、芝離宮では救世軍が、運営しともに託児所が設置されていた。託児所以外にも診療所や学校も設けられるなど、生活していくうえで欠かせない施設が整えられていた。焼失した地域も広く復旧には多くの時間が必要で、芝公園、芝離宮のバラックでは、翌大正一三年(一九二四)一月においても、それぞれ三七九六人、五五九一人が収容されていた。こうしたバラックは、同年二月末の調査で、行政が建設したバラックも含めて、芝区で一万一二四戸、麻布区で一三八戸、赤坂区で一三九三戸を数えた。またバラックなどの仮建築物は、その後の人口回復にも影響を与えた。震災直後、東京市外に避難していた罹災者のなかには、焼け出された旧住所に復帰する者もあらわれるようになった。震災二か月後の一〇月三〇日には、東京市で焼跡に復帰した戸数は八万六一三二戸、人口は四二万一〇七二人であった。この一〇月三〇日から五日間だけで四二九五戸、三万三三〇人が復帰するなど、大正一三年二月までに一五万二六九三戸、七二万一四九一人に達していた。
 表3―1―2―1は、震災前後の市勢調査と国勢調査から港区域とその周辺四区の人口を表したものである。芝区の人口は震災直後に一〇パーセント以上減少し、その後一定の回復がみられていた。この点、日本橋区や京橋区、本所区、深川区など被害が大きかった区の人口はなかなか回復せず、大正一四年の人口は大正九年のマイナス一〇~二〇パーセントほどであった。その点でも、芝区の人口回復は早かったことがうかがえる。一方、麻布区は震災直後、被害の少なさから人口が急増した。赤坂区も同様に震災前の人口をほぼ維持していた。本格的な復旧や人口の回復は一九三〇年代に実現していくこととなる。
 

表3―1―2―1 震災前後の人口動態

東京市編『東京市市勢統計原表』(東京市、1927)、内閣統計局編『国勢調査報告 昭和10年 第2巻 府県編 東京府』(東京統計協会、1937)をもとに作成