三章四節二項で後述するように、第一次世界大戦期の重化学工業の進展に伴って、港区域の工場数は増加した。表3―1―2―2は、大正一一年(一九二二)から大正一四年の港区域の工場数、生産価額を記したものである。大正一一年時に三区のなかで最も工業生産が盛んだった芝区の生産価額は、京橋区を超え東京市一五区のなかで本所区に次ぐ位置にあった。なかでも機械産業が中心を占め、その生産価額は一五区中最高額であった。各年の一二月三一日時点での数値から、大正一一年と大正一二年を比較すると、芝区で震災の影響が大きかったことがうかがえる。工場数では約八〇パーセント、生産価額でも五〇パーセント減少していた。実際、東京府全体でも工場数、職工数ともに大正一一年から約四〇パーセント減少していた。一方で、麻布区や赤坂区での工場数や生産価額の変化は少なく、震災による被害が区によって異なっていたことがうかがえる。
加えて、同一区内においても地域によってその影響は異なっていた。『芝区誌』に掲載されている震災被害の工場調査では、大正一二年八月時、芝区内、愛宕警察署管内の工場五七三のうち、火災による全焼が五五四と大部分が被害を受けた一方、三田署管内六九八のうち、七八が全焼、高輪警察署管内三九九のうち、一四が全焼と、他地域での被害が軽微であった。同じ芝区内でも大きな差があった。
震災後の復興については、東京府全体で工場数が大正一五年、職工数は昭和三年(一九二八)に震災前の水準を回復している。震災後、東京市周辺の郡部を中心に工場が増加することが指摘されている。一方、震災の被害を受けた市内の工場群は短期的には負の影響を受けたものの、復興過程で元の場所での復活を遂げた工場が多かった。実際に、大正一二年(一九二三)一〇月末から火災などで避難していた人々が戻りつつあり、また、深川区・本所区の事例ではあるが、当地の工場経営者が「本所深川工業復興会」を結成するなど、工場の再建を目指す動きがみられていた。震災からの復興需要の存在もこうした動きを促したのであろう。
第一次世界大戦後、長期的な工業発展が続くなかで起きた関東大震災は、短期的な工場数の減少といった影響を及ぼした。しかし、徐々に復興し、一九二〇年代後半の不況を経験するものの、一九三〇年代以降の発展を準備することになる。 (高柳友彦)
表3―1―2―2 震災前後の工場数・生産価額(単位:円)
東京市編『東京市統計年表 第20回』(1924)、同「東京市統計年表 第21回」(1925)、同「東京市統計年表 第22回」(1926)、同「東京市統計年表 第23回」(1927)をもとに作成