近代以降の東京港の整備について、東京都編『東京港誌』や関連文献からその過程をみていこう。水運が輸送網の中心であった江戸時代、江戸湊が舟運の拠点として発展した。当初、日本橋川や京橋川の川筋から八丁堀を中心としていた江戸湊は、その後の湊の改築を経て、外港として築地から高輪辺り、内港として隅田川を中心に展開した。武士や町人ら数多くの人々が集住する江戸には、全国各地から様々な消費物資が集まり、江戸湊は、そうした人々の生活や消費を支える重要な役割を担った。あわせて、これら湊の周囲には雑貨、木材、土石といった各種産物を取り扱う場が形成され、商業地域としても発展した。
水深が浅く大型船が入港できなかった東京港は、幕末に設けられた神奈川の横浜港に海運貿易の拠点を奪われた。また、東京への貨物は、新たに貨物輸送の担い手として登場した鉄道に加え、横浜港で中継する艀(はしけ)船によって輸送されるようになった。東京港の衰退という問題に加え、横浜港での荷役では、貨物の積み替え作業が必要となるため、輸送費の損失や時間ロスなど様々な問題を抱えていたのである。そうした困難を打開するため、明治初期から東京港の改良・改築計画が企図された。明治一三年(一八八〇)、東京府に市区取調委員局が設けられ、当時の東京府知事であった松田道之は築港(ちっこう)調査を実施し、海港案が示された。この計画案作成には、お雇い技師であったローウェンホルスト・ムルドルも関与し、その後府知事となった芳川顕正(あきまさ)も品海(ひんかい)築港案を明治政府に提出するなど尽力したものの、予算制約などで計画が具体化することはなかった。
明治三一年、それまで東京府が担っていた築港計画を含む港湾事務が、東京市に移管され、以後、東京市長を中心に東京港の築港計画が進められた。当時の松田秀雄市長は、築港計画の設計案を土木工学者の古市公威(こうい)と東京帝国大学教授の中山秀三郎に委嘱した。築港計画は市会などで議論され、事業費は総額四一〇〇万円が予定された。彼らが立案した築港計画は、品川湾を掘削して大型船が接岸できる港の整備を目的として、芝浦一帯を候補地として挙げ、芝離宮から品川砲台に至る場所が選ばれた。このように具体化された築港計画を提示して、政府への国庫補助金と東京築港の許可を請願したものの、横浜港関係者の反対や政府の慎重な姿勢からこの時も実現はしなかった。築港計画はその内容を変化させながら明治三九年に隅田川口の改良工事を築港計画に組み込むかたちで工事が始まった。