明治三九年(一九〇六)に第一期工事が始まった隅田川口の改良工事は、震災による中断を経て、大正一三年(一九二四)まで続けられた。第一期工事では越中島に加え(のちに月島へ変更)、芝浦での埋め立て工事が進められた。この埋め立てによって日之出物揚場(ものあげば)が芝浦に整備されたことで、それまで横浜で荷役していた小規模の汽船が直接、東京に来るようになったと伝えられる。こうして改良工事のなかで進められた埋め立ては、築港の重要な事業となった。
明治四〇年(一九〇七)に海岸通二丁目で始まった港区域の埋め立ては、昭和六年(一九三一)までに芝浦や西芝浦、高浜町で進められ、合計五六万坪の土地が新たに誕生した。第一期工事では工費節約から限られた改良工事のみが実施され、四、五〇〇トン級の小型汽船の出入りが自由になったにすぎなかった。その後の二期工事でも改良は限定的で、大正一一年(一九二二)から始まる三期工事で二、三〇〇〇トン級の船舶を対象とした計画が立てられたものの、関東大震災によって事業は大きく見直されることとなった。
大正一二年九月一日に起きた関東大震災において市内の橋梁や軌道、電信など、様々な公共施設が被害を受けた。ただ、海岸通りの埋立地には、第一期工事において築造された物揚場があり、ここが震災直後の救援物資などを輸送する拠点として活用された(当時の埠頭の水深は五メートルほどで船底をこするほど浅かった)。こうした海上輸送の重要性から震災後、本格的な東京港の整備計画が実行されることとなる。接岸設備の欠如が復旧への妨げになったことから、大正一三年には水陸連絡設備の整備の予算が決定され、大正一五年から日之出埠頭の使用が開始された。この日之出埠頭は二〇〇〇トン級の貨物船を六隻同時に繋留(けいりゅう)することが可能で、物揚場の延長一〇五メートル、面積約五万六〇〇〇坪の広さであった。あわせて、日之出埠頭から貨物駅であった汐留駅までの臨港鉄道も建設された。
この日之出埠頭の完成と隅田川口改良工事によって、後述するように、東京港での荷役が本格化するとともに入港する船舶も増加した。その後、隅田川口改良工事の計画が変更され、五〇〇〇トン級の船舶が繋留できる施設として、昭和八年(一九三三)に芝浦岸壁が整備され、ここでは、五〇〇〇トン級の船舶七隻の繋船が可能となった。大型船を対象とした東京港の発展は、一九三〇年代後半に実現することとなる。