東京港の取扱貨物の実態

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 第一次世界大戦後と一九二〇年代後半における東京港の貨物輸送の実態について『東京市貨物集散調査書』から確認してみよう。表3―1―3―1は、大正九年(一九二〇)の東京市の貨物輸送の総量を輸送機関別に表したものである。第一次世界大戦時に急増した貨物輸送は、大正九年三月以降の景気悪化の影響から全体量が減少している。工業生産が盛んでかつ消費活動が盛んな東京には、全国・海外から多くの物資が、船四割、鉄道六割の割合で輸送(輸入)されていた。加えて、東京から全国へと輸送(輸出)される貨物も多かった。こうした東京の物流は、輸出量の約七割、輸入量の約六割を鉄道輸送が占めていた。一方、水運は若干の河川輸送が存在したものの、残りの大部分を海運が担っていた。
 表3―1―3―2は、表3―1―3―1と同様に昭和四年(一九二九)の東京市の貨物集散の状況を表したものである。約一〇年間で貨物取扱量は一・五倍に増加し、なかでも他所からの貨物輸送(輸入)において、海運の占める割合が大正九年(一九二〇)に比べて増加していることが確認できる(大正九年では輸入の三九パーセントが海運であったものが昭和四年には四八パーセントに増加している)。
 続いて、表3―1―3―3は、表3―1―3―1で示した東京港における大正九年の海路経由の貨物の総量、輸出量六八万七四一三トン、輸入量三六五万二一三トンの荷役の内訳を示したものである。東京港のどの荷役を利用したのか、荷役場ごとの数字を紹介しよう。ここで示されている横浜荷役は横浜、品川荷役は品川、河内は隅田川河口での荷役を示している。東京港への海運での貨物輸送の多くを、横浜荷役に依存していることが確認できる。上述したように東京港の整備がまだ途上であった当時、多くの貨物は横浜経由で運ばれていた。また河内荷役と呼ばれる近世から続く、隅田川河口での荷役も重要な輸送経路の一つであったことがうかがえる。
 表3―1―3―4は、表3―1―3―3と同様に昭和四年(一九二九)の値を示したものである。横浜荷役は利用があるものの取扱量は減少するとともにその割合も低下している。一方、新たに芝浦荷役が登場し、東京港の荷役の半分を担うようになっていた。河内荷役の割合も激減するなか、東京港整備の成果がうかがえる。上述した日之出埠頭や隅田川河口工事の進捗によって、横浜港への依存を脱却することができたのである。  (高柳友彦)
 

表3―1―3―1 東京市における貨物集散トン数(大正9年〈1920〉、単位:トン)
東京市編『東京市貨物集散調査書』(1921~1924)をもとに作成

表3―1―3―2 東京市における貨物集散トン数(昭和4年〈1929〉、単位:トン)
東京市編『東京市貨物集散調査書』(1934)をもとに作成

表3―1―3―3 東京港 内国貿易・外国貿易 輸出入貨物トン数(大正9年〈1920〉、単位:トン)
東京市編『東京市貨物集散調査書』(1921~1924)をもとに作成

表3―1―3―4 東京港 内国貿易・外国貿易 輸出入貨物トン数(昭和4年〈1929〉、単位:トン)
東京市編『東京市貨物集散調査書』(1934)をもとに作成