小学校の状況

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 東京市では地域内の人口増加に加えて、明治四〇年(一九〇七)に小学校令改正に伴う義務教育年限延長が実施され、大正期になって就学児童は急増した。小学校不足と教員不足のために、小学校は授業を午前、午後に分けて行う二部教授にせざるを得なかった。『第一三回 東京市学事年報』によれば、大正元年度(一九一二)において、赤坂区では二部教授がないのに対して、芝区では全児童に対し二部教授を行う小学校が一校(一〇学級・児童数四五三名)、一部の児童に二部教授をしていた小学校が八校(四八学級・児童数二六一二名)あり、麻布区では一部の児童に二部教授を実施する小学校が三校(一八学級・児童数一一五四名)であった。麻布区では翌年から二部教授は廃止されるが、児童数の増加に伴い、大正五年度より再び二部教授を実施した。当時、東京市においても公立尋常小学校の約半数の八一校で二部教授が実施され、四〇〇〇人を超える児童が二部教授を強いられていた。
 こうした就学児童の増加に対応するため、芝区に高輪尋常小学校(大正二年)、神明尋常小学校(同三年)、神応尋常小学校(同一〇年)、赤羽尋常小学校(同一五年)、麻布区に東町尋常小学校(同二年)が新たに設置された。大正一五年には芝区の公立小学校は一八校、麻布区では九校、赤坂区では五校となり、芝区の小学校数は一五区のなかで最も多くなった。それでも学校施設の不足は解消されず、既存の校舎の増改築などによって対応した。
 就学率は年々高まり、大正一〇年には芝区で九八・二〇パーセント、麻布区で九九・一三パーセント、赤坂区で九九・三九パーセントとなり、就学児童数は三区合計で三万八〇〇〇人を超えた(表3-3-1-1)。
 また、明治四〇年(一九〇七)に小学校の就学年限が六年に延長され、中等学校(中学校、高等女学校、実業学校の総称)への進学ルートが制度的に確立したことにより、小学校卒業後に中等学校への進学を希望する者が増えた。卒業後の進学先としては、男子は高等小学校、中学校、商業学校、工業学校、実業補習学校、各種学校、女子は高等小学校、高等女学校、実科高等女学校、実業補習学校、各種学校があるが、昭和初期には港区域で男女ともに八割以上の児童が上級学校への進学を選択している。このうち中学校進学率と高等女学校進学率に注目すれば、昭和五年(一九三〇)の市立小学校卒業者の中学校進学率は東京市全体で二一・二二パーセントであるのに対して、芝区は二四・四三パーセント、麻布区は三三・三三パーセント、赤坂区は四一・三七パーセントであった。高等女学校進学率は、東京市全体で三三・〇九パーセントに対して、芝区は四四・〇三パーセント、麻布区は四七・六六パーセント、赤坂区は五八・二〇パーセントであった。いずれも赤坂区が高い進学率を示しており、東京市全体でみても中学校進学率は麴町区、本郷区に次いで三番目、高等女学校進学率は麴町区に次いで二番目に高かった(『東京市統計年表 第二八回』一九三二)。大正期以降、中学校や高等女学校に多くの進学者を輩出する公立の進学名門校が出現したが、青南尋常小学校(赤坂区)もその一校であった。激しい進学準備教育によって受験・進学実績を上げ、学区外からの越境入学者も受け入れるようになり、東京市内にその名が知られる有名校となった。
 

表3-3-1-1 学齢児童の就学率(単位:%)
『東京府統計書』、『文部省年報』をもとに作成