明治末期から大正期にかけて私立中等・高等教育機関の社会的評価が高まることにより、入学者数は増えていった。それは、それらの学校に併設された私立小学校の入学者数の増加にも影響を与え、小学校卒業生が卒業後も継続して併設の中等・高等教育機関に進学する傾向を強めていった。
慶應義塾幼稚舎では、大正九年(一九二〇)に同大学部が「大学」に昇格して以降、入学志願者数や在学者数が増加した。大学昇格の同年には幼稚舎第一学年の入学志願者数が入学定員を大きく上回り、初めて入学試験を導入・実施することとなった。それは私立小学校のなかでも比較的早い時期での導入であった。また、幼稚舎の卒業生が継続して大学まで進学する割合もこの時期に大きく上昇した。それまでの幼稚舎卒業生は東京帝国大学をはじめ他大学に進学することが多かったが、大正九~一四年(一九二〇~一九二五)の卒業生のうち五〇・九パーセントが慶應義塾大学を卒業し、大正一五~昭和七年(一九二六~一九三二)の卒業生は大学や大学予科などに在学中の者も含めて七三・三パーセント、昭和八~一一年(一九三三~一九三六)の卒業生では九五・八パーセントが慶應義塾内の中等教育機関に進学していたという(小針 二〇一五)。
東洋英和女学校小学科についてみれば、女子の高等女学校への進学者数の増加とともに、東洋英和女学校に多数の生徒が集まるようになり、小学科でも六学年で一〇〇前後であった在学者数が、大正一二年(一九二三)以降に二〇〇人弱にまで増加した。当初は小学科第一学年への入学に試験はなく就学年齢に達した者を入学させる方針であったが、入学志願者の増加を受けて、大正一四年の学則改正で入学試験(知能検査)を行うことが規定された。入学定員は一八〇名(大正一五年)としたが、その後二一〇名(昭和七年)に改正された。
これらの私立小学校では、小学校卒業生が無試験で併設の上級学校に進学できるというように、併設の上級学校への進学機会が保証されていた。東洋英和女学校では、附属幼稚園修了者については「園長の推薦を受けたるものは知能検査を経ずして小学科に入学を許可す」(「東洋英和女学校附属幼稚園規則」昭和七年二月改正)として、幼稚園から一貫教育としての連絡関係が制度化されていた。
こうした私立小学校を選択したのは、主として新中間層であった。新中間層は子どもに直接的に継承できる身分的地位や財産を持たないため、学歴をつけさせることに熱心にならざるを得なかった。併設の上級学校を持つ私立小学校に入学することができれば、進学のたびに受験勉強に追い立てられることはなく、その学校独自の教育理念のもとで一貫した教育を受けられる。また、卒業後の就職にも有利に働くというのである。そのため、これらの私立小学校は高額の授業料にもかかわらず新中間層から支持され、入学希望者や在学者を増やしていった。港区域に設置された私立小学校は芝区に四校、麻布区に一校で、赤坂区には私立小学校はなかった。慶應義塾幼稚舎(昭和一二年渋谷区へ移転)、東洋英和女学校小学科、聖心女子学院小学校、南高輪尋常小学校(現在の森村学園初等部)はいずれも併設の上級学校を持ち、戦後まで続いている。