関東大震災前後

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 大正一二年(一九二三)九月一日、関東大震災により東京市の公立小学校の過半は焼失した。港区域内の各小学校の被害状況には違いがみられたが、芝区北部地域に被害が集中しており、芝区では小学校九校が焼失した。それは全市の罹災率からみれば低いが、当時の港区域の小学校数の四分の一であった。芝区の罹災児童数は八四三七名に達した。焼失学校に関する統計は、表3-3-1-2のようになっている。
 市内すべての小学校は震災とともに一時授業を休止し、罹災者の収容や救護活動に協力した。また、授業再開の準備、避難児童の調査や訪問、登校日を設けて避難児童の慰安、激励、復習などを行った。芝区、麻布区、赤坂区はともに一〇月中旬から授業を再開した。被災地域の児童が焼失を免れた地域に避難・移動したために学級児童数が増加し、二部教授・三部教授を余儀なくされた。焼失した小学校では露天授業、天幕授業、応急仮校舎での授業が行われた。
 東京市は大正一三年度より七か年継続事業として復旧工事に着手し、昭和五年(一九三〇)末にはほとんど完成をみた。震災で木造校舎を焼失した経験から、復興計画によって近代的な鉄筋校舎の建設が次々に進められていった(図3-3-1-1)。
 

表3-3-1-2 焼失小学校並罹災児童数(大正12年〈1923〉9月12日調)
東京市役所『東京震災録』中輯(1926)をもとに作成

図3-3-1-1 赤羽小学校の鉄筋校舎
『港区教育史』(1987)から転載