労働や貧困などによる不就学児への対策のために、明治後期に東京市の事業として特殊小学校や特殊夜学校が開設されたことは二章三節一項で述べたとおりである。このうち特殊小学校は、出身校名が差別的待遇と密接に関係すること、特殊小学校付近に細民児童が減ったことなどを理由として大正一五年(一九二六)に各区に移管された。麻布区の絶江尋常小学校は一般の児童を収容することとなり、麻布新堀尋常小学校と改称するが、児童数の減少により、昭和七年(一九三二)に閉校している。その一方で、大正期以降には児童の通学率を上昇させるために学業不振、病弱・虚弱、障害などの困難を抱える児童への多様な取り組みが実施されるようになった。
東京市は大正八年(一九一九)に貧困児童の健康状態や学力・知能実態、家庭境遇の実態を解明するために「都市児童調査」を実施し、教育救済事業に本格的に着手した。翌九年、学業不振など多様な困難をもつ子どものための特別学級として、小石川区林町尋常小学校と本所区太平尋常小学校に補助学級(林町尋常小学校では「促進学級」と称した)を設置した。さらに、大正一一年には林町尋常小学校・太平尋常小学校の実践の成果を踏まえ、東京市内の一八の小学校に補助学級を開設した(石井・石川・髙橋 二〇一四)。港区域では、鞆絵、赤坂、筓の各尋常小学校に設置された。その後、大正一四年には本村尋常小学校にも設置された。各校の学級数はほとんど一学級で、児童は二〇名を標準とした。補助学級では、学力遅滞児・劣等児を対象とし、学年配当の教材にとらわれず、児童の知能の発達に応じた個別的な教育を行った。麻布区の筓尋常小学校では、第二、三学年の児童に学力考査を実施して選抜し、東京市視学(教育行政官)によるメンタル・テスト(知能検査)を行ったうえで、二〇名の児童を選出した。教授上においては教材を軽減し、児童の興味を促すようにカードなどを利用し教材の具体化を図っていた(『港区教育史』一九八七)。昭和七年(一九三二)一〇月時点では、市内に補助学級を特設する小学校は二三校、学級数は二七学級、児童数は四九〇人である(『東京市教育概要』一九三三)。
また、虚弱・病弱児童救済のための事業として、大正一五年(一九二六)に小学校に養護学級を設置し、その教育を行うようになった。港区域においても、昭和初期に本村尋常小学校、神応尋常小学校、氷川尋常小学校などに養護学級が設置された。養護学級では、第一、第二学年の病弱児童を収容し、体育、とくに戸外運動を奨励し、昼食は栄養食を供給するなど、健康に留意した教育が行われた(『東京市教育概要』一九三三)。
このほか、虚弱・病弱児童だけでなく、心身に障害のある児童のための特別学級も設けられている。例えば、芝区の愛宕尋常小学校には吃音児童の矯正を目的とした吃音学級が一学級あった(『芝区誌』一九三八)。麻布区の南山尋常小学校には昭和八年(一九三三)一二月に日本最初の弱視児童のための弱視学級が開設されている。この弱視学級は三~四年生を合わせた複式学級としてスタートしたが、翌年四月に児童の進級に伴い一学級増設され、昭和一五年には視力保存学級と改称され、さらに一学級増設して尋常一~六年生までが収容できるようになった(小林 一九八四)。
さらに、昭和七年、東京市は麻布区本村町に光明学校(現在の都立光明学園)を開校した。同校は、日本における最初の肢体不自由児学校である。修業年限は六歳から一二歳までの六年とし、「小学校ニ類スル各種学校」(「小学校令」第一七条)の扱いであった。同校は、東京市在住の肢体不自由児を収容し、小学校普通教育を施すとともに、職業教育に留意し、肢体の治療矯正を行うことを目的としていた。創設当時の職員数は一〇名(教員五、治療医一、看護婦四)、児童数は三四名、学級数は三であった(『麻布区史』一九四一)。
明治期から昭和初期における初等教育普及の過程において、あらゆる階層や様々な教育的課題を抱える児童など、多様な教育ニーズへの対応を目指したところに、港区域の初等教育の特色をみることができる。 (小山みずえ)