明治期に整備された中等教育等諸学校の教育体系は、大正期に入ると改革が議論、検討されるようになる。議論は高等学校や大学に対する要望が大きかった。
大正五年(一九一六)に、当時の文部大臣岡田良平が学制改革に着手をする。内閣直属の諮問機関として臨時教育会議を構成し、学制改革のすべての問題がここで改めて検討されることとなった。大正七年、臨時教育会議の答申を受けて勅令第三八八号「大学令」が制定される。ここで大学の性格を、「国家ニ須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ薀奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養ニ留意スヘキモノトス」と規定した。大学令の公布により、すでに公布されていた帝国大学令は帝国大学にのみ適用されることとなり、官立だけではなく公立および私立の大学の設置が認められるようになった。