第三項 幼児教育の状況

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 大正期は幼稚園教育が大きく発展した時期であり、大正一五年(一九二六)の幼稚園令の公布によって制度的な確立をみることになる。全国的にみれば幼稚園数は年々増加し、大正二年の五六八園が、同五年には六六五園、同一〇年には七三三園となり、同一五年には一〇六六園となった。幼稚園の就園率は小学校の就学率と比較すれば極めて低いが、明治二九年(一八九六)には〇・七パーセントであった五歳児の就園率は、大正二年には二パーセントとなり、大正一五年には四・四パーセントと徐々に上昇した。
 その間、港区域にも一〇園が新設され、大正一五年三月時点で公立二園、私立一四園を数えたが、大正初期に二園が閉園となっている。大正期に新設された幼稚園は表3-3-3-1のとおりである。
 この表からも明らかなように私立幼稚園が増加しており、このうち東洋英和女学校附属幼稚園、霊南坂幼稚園、聖坂幼稚園はキリスト教系の幼稚園である。大正一二年(一九二三)の関東大震災で芝区の共立幼稚園と啓蒙学校附属幼稚園が罹災した。大正期を通して公立幼稚園の設置はわずか一園であるが、昭和初期には西桜尋常小学校附設幼稚園(芝区)、青山尋常小学校附属幼稚園(赤坂区)、南山幼稚園および麻布麻中幼稚園(麻布区)の四つの公立幼稚園が設置されている。西桜尋常小学校附設幼稚園は、芝区唯一の公立幼稚園であった。
 明治三二年(一八九九)の「幼稚園保育及設備規程」以降、多くの幼稚園では「遊戯」「唱歌」「談話」「手技」の四項目に基づいて保育内容を編成した。従来の恩物中心の形式的・知識注入主義的な保育は見直され、遊戯を中心とする保育に移行しつつあった。例えば、市立麻布幼稚園の設立時(大正二年)の幼稚園規程をみると、一日の保育時間は四時間で、「唱歌」「遊戯」「談話」「手技」を各三十分、「外遊」(食事時間を含む)を二時間とし、屋外での自由遊びに多くの時間が充てられている。また、長者丸幼稚園の「幼稚園設立書」に示された一週間の保育時間表によれば、「唱歌、談話」「手技」「室内遊戯」といった活動の間に三〇分ずつ自由遊戯や自由運動の時間が取られている。
 大正期には新しい保育思想や方法も導入された。例えば、東洋英和女学校附属幼稚園では、プロジェクト・メソッドを研究して保育法に取り入れたり、ヒルの大型積木の図面をアメリカから取り寄せて制作したりするなど、進歩的な保育を実践しようとした(『東洋英和女学校五十年史』 一九三四)。とくにキリスト教系の幼稚園では、アメリカのキリスト教主義・進歩主義幼稚園の影響を受けていたことがうかがえる。また、この時期、全国および各地で保育研究団体の活動も活発化し、各園の保母が連携を図りながら保育内容・方法改革が推進された。
 大正一五年(一九二六)四月、勅令第七四号「幼稚園令」が公布された。幼稚園令は日本で最初の幼稚園に関する単独の勅令であり、これによって幼稚園は初めて教育制度中に小学校以上の教育機関と同等の地位を確保するに至った。また、同令施行規則においては「幼稚園ノ保育項目ハ遊戯、唱歌、観察、談話、手技等トス」として、従来の四項目に新たに「観察」が加えられ、さらに「等」という文字の付加により各園の判断でほかの項目を保育内容として選択し、工夫する余地が示された。「観察」自体は新しいものではなく、以前から自然観察などを取り入れて保育を行う園もあったが(例えば霊南坂幼稚園など)、それが制度的に位置付けられたことに意味があった。この直後に開設された安藤幼稚園(大正一五年八月)をはじめ、幼稚園令以降に設立された幼稚園は新しい法令に即して保育内容を定めた。昭和初期には保母たちによる保育研究活動もより活発なものとなり、保育内容・方法の充実が図られていった。   (小山みずえ)
 

表3-3-3-1 大正期に新設された幼稚園

『東京教育史資料大系』8・9(東京都立教育研究所、1974)、東洋英和幼稚園100周年記念誌編纂委員会編『いちょうの木の下で――東洋英和幼稚園100周年に寄せて』(東洋英和幼稚園、2016)をもとに作成

図3-3-3-1 開園当初の東洋英和女学校附属幼稚園
東洋英和女学院史料室所蔵

図3-3-3-2 南高輪幼稚園のままごと遊びの様子(昭和初期)
南高輪尋常小学校編『私立南高輪尋常小学校・幼稚園創立二十五周年記念』(1935)から転載