商店街の拡大と公設市場

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 はじめに、芝区・麻布区・赤坂区における商店会についてみていく。昭和一三年(一九三八)刊行の『東京市産業関係団体便覧』によると、芝区に二〇、麻布区に一五、赤坂区に八の商店会があり、合わせて四三の地域で形成されていた。このうち、それぞれの区で最も古いものは、芝区白金台町(現在の白金台三丁目)の商栄会(明治四年設立)、麻布区坂下町(現在の麻布十番二丁目)の坂栄会(大正元年設立)、赤坂区一ツ木町(現在の赤坂四丁目)の共商会(明治四〇年設立)であった。また、四三の商店会のうち、三七のそれは大正期以降に設立されている。地域的には、芝地域や高輪地域から全域的に拡大している。こうした商店会の相次ぐ設立は、戦間期における商業の進展を物語るものといえよう。
 芝区を代表する繁華街である新橋(図3-4-1-1)では、一九二〇年代後半から三〇年代にかけて、カフェやバー、ダンスホールを中心に、寿司屋や牛肉屋、精養軒などの西洋料理店などが賑わいをみせていた。新橋の花街には千人以上の芸者がいたが、関東大震災後にはその規模を縮小させていく。しかし、新橋演舞場などを中心に芸者たちが活躍し、烏森は料理屋の「湖月」や待合の「桝田屋」を中心に繁盛していた。他方、赤坂区では、関東大震災前に唯一ダンス場を併設していた待合の「三しま」などを中心に発展していった。
 また、関東大震災後には、安価に日用品を提供することで市民生活を安定化させることを目的として、各百貨店がマーケットを開設する。三越呉服店の場合、東京市内に八か所の三越マーケットを展開し、三区のなかでは、赤坂区青山に開設された(図3-4-1-2)。
 さらに、関東大震災後に発展した盛り場として、麻布十番周辺が挙げられる。昭和初期の麻布十番は、白木屋などが店舗を構えるとともに、これら呉服店を中心に製菓店や唐物店が軒を連ねており、神楽坂と並ぶ山の手地域の代表的な商店街へと成長していった。
 東京の公設市場は、大正七年(一九一八)の米価暴騰(米騒動)の際に東京商業会議所が篤志家から集めた寄付金の一部を活用して、翌八年に設立されたものである。港区域内の東京市設小売市場には、赤羽橋市場(芝区)と霞町市場(麻布区)があり、白米や麦、豆、乾物、茶、醬油などの食料品が販売されていた。一方、赤坂区には、赤坂見附市場、青山市場、新町市場の三つの東京府市場協会小売市場が開設されており、食料品に加えて、陶器や呉服、傘、履物、雑貨などといった日用品も広く取り扱われ、区民の生活を支える役割を果たしていた。
 

図3-4-1-1 関東大震災前の新橋と芝口通り
株式会社今朝所蔵

図3-4-1-2 青山に開設された三越マーケット(大正12年〈1923〉10月開設)
株式会社三越伊勢丹所蔵