ここで、表3-4-1-1として、芝区、麻布区、赤坂区の質屋の概況を示す。同表からもわかるように、関東大震災の影響によって、東京市内の店舗数は大正九年から昭和五年にかけて大きく減少しており、これは港区域の場合も同様である。それに伴い、一店あたりの貸出額が上昇している。また、大正一四年頃までは、一口あたりの平均貸出金額が上昇している一方で、昭和五年以降には減少していることもみてとれる。三区のなかでは、芝区が店舗数や貸出額で突出した規模を示しており、庶民金融が隆盛な地域であったといえる。
ここで、質屋金融の具体的様相についてみていく。芝区でかつて営業していた質屋の一つに、現在の慶應義塾大学三田キャンパス東門に隣接していた太田屋多田質店がある(図3-4-1-3)。ここで、多田質店の利用客や質物から、戦間期における庶民の生活の一端をのぞいてみる。大正期における同質店の利用客は芝区の住民が中心であったが、昭和期に入ると他地域からの利用客も増加する。ただし、実際の利用状況は、芝区の住民が中心であった。具体的には、職人や職工を中心に、学生、商業関係者の利用が目立つ。これは、芝区周辺には工場などが集積していたことに加え、慶應義塾大学に隣接しているという立地的特性を反映したものといえる。
質屋の利用客が質物として利用したものの中心は衣類であった。その内訳をみると、大正初期には袷(あわせ)や羽織、単物(ひとえもの)、襦袢、袴、帯などの「和装」に関わる品物がほとんどであったのに対し、昭和期に入ると背広やズボン、シャツ、セーター、スカートなどの「洋装」に関わる品物の質入れが目立つようになる。このことは、社会の洋風化の影響を反映したものである。港区域においても、西洋風の風俗が、庶民のなかに浸透していたといえる。また、慶應義塾大学に隣接していたことから、学生を中心に書籍の質入れなども行われていた。さらに、質屋を倉庫的に活用する利用客も確認されている。多田質店では、継続的な取引関係がある利用客に対しては、返済期限を猶予するなど、利用客を第一とした取引慣行があった。ただし、同店の利用客の大部分は男性であった。
次に、芝区、麻布区、赤坂区における銀行の展開についてみていく。東京市内における銀行の本支店数は、表3-4-1-2に示すとおりであり、東京市全体の約一割が芝区、麻布区、赤坂区に立地していたといえる。このうち、大正九年(一九二〇)時点で港区域内に本店を置く銀行は、芝区における東京貿易銀行(愛宕町〈現在の西新橋三丁目〉)、中央商業銀行(芝口〈現在の新橋一丁目〉)、河合銀行(南佐久間町〈現在の西新橋一丁目〉)、不動貯金銀行(宮本町〈現在の芝大門一丁目〉)、芝銀行(桜田伏見町〈現在の新橋二丁目〉)が、麻布区における勧業貯蔵銀行(新堀町〈現在の南麻布二丁目〉)、麻布銀行(新網町〈現在の麻布十番一丁目〉)があった。ここで、一つの区内における立地状況についてみると、例えば、赤坂区では青山や赤坂に金融機関が集中していた。昭和九年(一九三四)刊行の『赤坂名鑑』によると、住友銀行と東京貯蔵銀行が青山支店と赤坂支店の両支店を開設しており、三和銀行や昭和銀行など五行が青山支店のみを、第一銀行や日本昼夜銀行など三行が赤坂支店のみを設置していた。
また、昭和一〇年時点における三区ごとの貸出金額/預金額(預貸率)の総計についてみると、芝区が二五九一万円/一億六九四万円(二四パーセント)、麻布区が七三一万円/三〇五一万円(二四パーセント)、赤坂区が五七二万円/四二九一万円(一三パーセント)となる。取引金額の規模でみると、三区のなかでは芝区が突出しているが、三区とも貸出金額は低く、預貸率は概して低調であったといえる。 (三科仁伸)
表3-4-1-1 芝区・麻布区・赤坂区の質屋概況
注1)表中の店舗数の単位は「店」、貸出額の単位は「円」である。
注2)「東京市」は、旧市部のみを対象とした。
東京市役所編『東京市統計年表 第9回』(1912)、同『東京市統計年表 第14回』(1917)、同『東京市統計年表 第18回』(1922)、同『東京市統計年表 第23回』(1927)、同『東京市統計年表 第28回』(1932)、同『東京市統計年表 第33回』(1937)をもとに作成
図3-4-1-3 太田屋多田質店の経営帳簿(一部)
慶應義塾福澤研究センター所蔵
表3-4-1-2 芝区・麻布区・赤坂区における銀行本支店数(単位:店)
注)「東京市」は、旧市部のみを対象とした。
東京市役所編『東京市統計年表 第9回』(1912)、同『東京市統計年表 第14回』(1917)、同『東京市統計年表 第19回』(1923)、同『東京市統計年表 第23回』(1927)、同『東京市統計年表 第28回』(1932)、同『東京市統計年表 第33回』(1937)をもとに作成