第一次世界大戦による工業の発展

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 大正三年(一九一四)に始まった第一次世界大戦は、日本における重工業の発展を促した。製造工業生産額に占める重化学工業(機械・金属・化学)の割合は、明治四三年(一九一〇)の二一・三パーセントから大正四年(一九一五)は二九・三パーセント、大正九年では三二・八パーセントと急増したのである。大戦が長期化するなか物資の輸送を担う海運業が発展したことを受け、関連する造船業や製鉄業が飛躍的に発展した。加えて、欧州からの輸入に多くを頼っていた機械や化学産業も、日本国内での自給が進められた。
 表3-4-2-1は、大正四年から七年までの港区域の製造工業の工場数、職工数と生産価額を表したものである。日本電気や芝浦製作所、東京製綱といった大規模な工場群が所在していた芝区が三区のなかでは突出した存在であったことがうかがえる。芝区では機械産業が工場数、職工数、生産価額の多くを占めており、機械産業の工場数は大正四年は一三四工場だったが大正五年には一六九工場、大正六年は二三一工場と増加し、同区内の工場の過半数が機械産業の工場であった。また、いずれの区でも飲食物工場の増加が著しく、増加分の多くを占めていた(この点、東京市全体でも大正四年から翌年にかけて飲食物工業の工場数が三〇八から一六〇八へ、大正六年には一九四四に増加している。ここでは、調査対象の変更が理由か、また好況による開業の増加かその理由をつまびらかにできない。ただ、開業のしやすさや人口増加、都市的生活の普及といった背景がある点をここでは指摘できるだろう)。加えて、職工数一〇人未満と一〇人以上の工場の規模別では、いずれの区でも一〇人未満の工場数が三分の二から八割程度を占めていた。ただ、産業によって違いがあり、例えば芝区では、職工数一〇人未満の工場が機械産業では約五割であったのに対して、飲食物産業では約九割を占めていた。
 第一次世界大戦期は「動力革命」とも呼ばれる時期で、重工業だけでなく幅広い分野において原動機を用いた工場の割合も高まった。電力会社による電力供給範囲の拡大や料金の低下といった競争が存在するなか、製造業のあり方も大きく変化した。実際、大正四年の工場における原動機の使用有無を確認すると、芝区では原動機あり一四一、なし八二工場であったものが、大正七年には原動機あり三六九、なし九二工場と動力を用いた工場の割合が高まっていた。それまで小規模で手工業的な生産過程であった機械や雑工場の多くが、原動機を用いるようになったのである。
 

表3-4-2-1 第一次世界大戦期の工場数・職工数・生産価額

東京市編『東京市統計年表 第14回』(1917)、同『東京市統計年表 第15回』(1918)、同『東京市統計年表 第16回』(1920)、同『東京市統計年表 第17回』(1921)をもとに作成