一九三〇年代の工業発展

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 大正一二年(一九二三)に発生した関東大震災によって、港区域の工業が大きな打撃を受けたことは三章一節二項で紹介したとおりである。ここでは港区域の工業が一層進展した一九三〇年代以降の動向をみてみよう。一九二〇年代の日本の重工業は、不況や震災に加え、軍縮といった事情から生産が伸び悩んでいた(機械・金属が停滞する一方、電力業など新たな産業は登場している)。実際、大正九年に三二・八パーセントであった重化学工業の割合は、大正一四年には二三・七パーセントまで減少した。ただ、昭和五年(一九三〇)には三二・八パーセントと持ち直し、その後、高橋是清大蔵大臣による財政政策のもとでの軍需工業化によって、昭和一〇年には四三・五パーセントに達した。
 表3-4-2-2は、昭和五年から昭和一〇年までの港区域における工場数と生産価額の推移を表したものである。工場数が芝区で二〇〇〇を数え、麻布区、赤坂区でも第一次世界大戦期と比較して多くの工場が存在していたことが確認できる。生産価額は昭和六年、七年と減少または伸び悩む一方、昭和八年以降急増した。ただ、一九三〇年代の東京市は周辺郡部を吸収して「大東京市」を形成し始めていた。工場は芝区をはじめ旧市内の一五区に多く立地していたが、徐々に周辺の新市部での開業が目立つようになった。実際、旧市内と新市内で工場数を比較すると、昭和七年に旧市内一万八四九〇、新市部一万七一四〇であった工場数は、昭和一〇年に旧市内一万九六九〇、新市部二万一六四〇とともに増加している。ただ、旧市内では工場数の増加が鈍化する一方、新市部での増加が顕著であった。都市の発展とともに中心部での工場立地の条件が困難になったことがうかがえる。芝区では五年間で工場数が約二割増加している点は注目される。
 一九三〇年代の港区域における主要な企業・工場として、池貝鉄工所、日本鉛管、日本電気、沖電気、日本光学、梁瀬自動車など機械産業が主に挙げられる。一九二〇年代までの工場数の増加には、官営工場や大企業(池貝鉄工所、芝浦製作所など)の工場から独立したものが多く含まれていた。また、一九三〇年代では原動機を使用しない工場はいずれの業種でもみられなくなった。
 また、港区域では地域ごとに分布する工場の特性が異なっていた。ここで旧『港区史』から各町の工場分布の特徴をみてみよう。港区域には各種産業の工場が集積した地域が存在していた。芝浦には大規模な工場群が建設されていたほか、古川沿岸地域など区内の平坦な土地に工場が集積するようになった。一の橋から天現寺橋にかけての麻布新広尾町には震災以降、金属製品や機械器具の下請工場が集まっていた(図3-4-2-1)。工場の規模は、職工数が一桁から多くても二〇人程度の小規模工場で金属溶解や機械修繕といった製造品目であった。ほかにも白金志田町(現在の白金一丁目、高輪一丁目)や三田四国町(現在の芝二~三・五丁目)などで、一九二〇年代後半以降、小規模な機械器具工場が集積している(図3-4-2-2)。付近には池貝鉄工所や日本電気の工場が立地するなど、これら大工場の生産増加にあわせて周辺に多くの労働者や小工場が立地するようになり、港区域での機械・金属工業が発展を遂げた。芝区では、機械・金属産業の進展に伴いながら、大規模工場の周辺地域での小規模な下請工場が発展していたのである。
 

表3-4-2-2 1930年代初頭の工場数・生産価額

東京市編『東京市統計年表 第28回』(1932)、同『東京市統計年表 第29回』(1933)、同『東京市統計年表 第30回』(1934)、同『東京市統計年表 第31回』(1935)、同『東京市統計年表 第32回』(1936)、同『東京市統計年表 第33回』(1937)をもとに作成

図3-4-2-1 金属品製造工場の分布(工場法適用工場、昭和10年〈1935〉)
『港区史』下(1960)から転載

図3-4-2-2 機械器具工場の分布(工場法適用工場、昭和10年〈1935〉)
『港区史』下(1960)から転載