在来産業・雑工業の展開

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 機械・金属などの重工業が発展する一方で、多くの都市住民を抱え、東京中心部でもあった港区域は大都市中心部で展開する雑工業として、生活に身近であり必需となっている産業、なかでも製本、縫製、印刷、食品業が集中していた(図3-4-2-3)。
 明治期に愛宕で発展した家具製造業もその後は、官公庁向けの注文生産による高級品が中心となった。また、港区域で多く発展したのは、食料品産業であった。田町には森永製菓の工場(森永製菓は、明治三二年に赤坂で開業した)、また三田小山町には今村製菓の工場が建設され、大量生産によるチョコレートやキャラメルといった菓子類の製造が始まった。第一次世界大戦期に一人あたりの砂糖消費量が増加するなか(明治四三年〈一九一〇〉五・四キロ→大正九年〈一九二〇〉一一・五キロ)、人々の食生活のなかに、菓子の消費が増加するようになった。
 ここで、港区域における食品産業の展開、とくに菓子産業に注目して、『東京市・横浜市・川崎市菓業大名鑑』(以下『名鑑』)昭和八年(一九三三)からみていこう。この『名鑑』は、一九三〇年代初頭の東京、横浜といった大都市における製菓を扱う店舗を網羅的に調査したものである。それぞれの地域内の和洋生菓子、餅菓子、米菓、パン・洋生菓子、乾菓子、卸問屋、製菓工場名のほか、製造販売・販売・卸などの経営形態、一部に創業年が記載されている。港区域三区の状況は以下のとおりである。
 芝区  和洋生菓子六九店 餅菓子一〇四店 米菓・餅五五店 パン・洋生菓子八三店 乾菓子一一〇店
     飴菓子七店 豆菓子一〇店 甘納豆一店 瓦煎餅二店 卸一二店 製菓工場一七店
 麻布区 和洋生菓子三九店 餅菓子三五店 米菓・餅五六店 パン・洋生菓子四八店 乾菓子六一店
     飴菓子七店 豆菓子五店 瓦煎餅一店 卸一店 製菓工場八店
 赤坂区 和洋生菓子三八店 餅菓子二四店 米菓・餅三七店 パン・洋生菓子三九店 乾菓子二八店
     飴菓子一店 豆菓子四店 甘納豆一店 卸三店 製菓工場四店
 三区のなかで最も人口の多い芝区は、いずれの業種・業態も店舗数が多いものの、麻布区では、米菓・餅やパン・洋生菓子、赤坂区では和洋生菓子が相対的に多いことが確認できる。また、繁華街を擁(よう)する中心部三区と比較しても(神田区七四店、京橋区五九店、日本橋区四五店)、パン・洋生菓子の店舗が多く、とくに人口があまり多くない麻布区、赤坂区(麻布区九万人弱、赤坂区約六万人、神田区約一三万人、日本橋区約一〇万人、京橋区約一三万人)での店舗数の多さが指摘できるだろう。両区は大使館など外国人との関わりが深く、実際、上述した森永製菓が創業時に洋菓子の売れる地域として、赤坂を選んで開業していることからもうかがえる。
 また、いずれの地域でもパン・洋生菓子だけでなく、和菓子の店舗も多い。近世からの歴史や系譜を持つ店が少なくなく、創業年が近世または明治の店も多く、現在でも歴史を受け継ぐ老舗の名も『名鑑』には記されている。  (高柳友彦)
 

図3-4-2-3 各種工場分布(昭和9年〈1934〉10月)
『港区史』下(1960)から転載