都市内の生活の変化は著しく、なかでも電気・ガスなど都市内の生活インフラは急速に展開した。東京市内の電気供給事業は、東京電燈が明治一九年(一八八六)に開始したのが始まりであった。その後、明治四四年に東京鉄道を買収した東京市は、市内での電気供給事業を展開した。東京市の電気事業の供給範囲は、港区域では、赤坂区のすべてと芝区、麻布区の一部の地域であった。ただ、大正三年(一九一四)の電灯供給は、芝区で約八〇パーセント、麻布区で約六七パーセント、赤坂区で約五一パーセントを東京電燈が占めるなど、事業体の地域ごとのシェアには大きな違いがあった。その後、浅草区や下谷区を中心に電気を供給し始めていた日本電燈を加えた三つの事業体は、「三電競争」と呼ばれる競争状態となった。競争の激化によって、電灯料金は公表料金の二分の一から三分の一に低下したと伝えられている。ただ、弊害も多く無理な需要増の結果、延滞料が増加し各社は収入の低迷が大きな課題となった。結果、市内の電気供給事業を担っていた東京電燈、日本電燈と東京市との間で供給区域の協定が行われた(その後、日本電燈が東京電燈に買収されたので、実質東京市と東京電燈との協定となる)。芝区と麻布区は東京市が、赤坂区は東京電燈が供給することが定められるとともに、各社で異なっていた料金が統一され、定額電灯料金は二割から七割値下げされた。
一方、電気と同様に都市生活に不可欠なガス事業は、明治初期にガス灯への供給を目的に東京会議所によって実現した。このとき、新橋、金杉橋間でガス灯が設置されている。東京府に移管されたのち、明治一八年(一八八五)に東京瓦斯会社が資本金二七万円で設立された。ガス製造工場が芝浜崎町に置かれ、以後事業を展開していった。当初は灯火用としての利用が中心であったものの、明治末頃から電気需要の増加の影響で、灯火用での利用が低迷するなか、燃料用の需要が増加した。大正九年(一九二〇)の港区域でのガス需要は、芝区一万七五九四戸、麻布区八九一四戸、赤坂区六九一五戸であったものが、震災後の昭和二年(一九二七)には、芝区二万一一四八戸、麻布区一万二四七一戸、赤坂区九〇二二戸に増加した。