区内交通の発展

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 明治四四年(一九一一)に東京市営となった市電は第一次世界大戦期に、景況が活発化するのに対して、経営や事業の展開が停滞した。諸物価の高騰などの要因で、事業計画が進まなかったのである。大正三年(一九一四)に新規に三一キロの路線開業が実現したものの、その後の路線延長は停滞し、乗客数は微増であった。ただ、乗客数も東京市内の人口増の影響を受け、大正八年度には一〇九万人に増加した。大正一二年九月一日に起きた関東大震災によって、東京市内の市電網は大きな被害を受けた。被害が軽微だった山の手では早くから運転を再開し、港区域では、九月八日に青山六丁目―桜田門間、四ツ谷塩町―泉岳寺前間が開通し、全線復旧は翌一三年六月一二日であった。
 市電の復旧に時間がかかるなかで、市内交通の足として、乗合自動車の許可が下り、大正一三年三月に市内二〇系統の市営バス路線が開業した。港区域では、品川駅や目黒駅を起点に芝園橋を経由し東京駅を結ぶ路線や、麻布材木町から日比谷を経由して水天宮前を結ぶ路線が運転されていた。当初、期間限定の運行を予定していた市営バスは、大正一三年七月以降は路線を減らしたかたちで存続した。その後、震災復興を遂げていくなか、郊外での人口増加の一方、市内人口は回復せず、市電、市バスの利用状況も悪化した。港区域内の人口は震災前の水準に回復していたものの、新たに登場した民間の自動車交通の進展に伴い、市営交通の不振が続いたのである。