東京が大都市に成長していくなかで都市交通の整備は喫緊の課題となり、西欧諸国で採用されていた地下鉄道が注目された。大正九年(一九二〇)に計画された東京市区改正設計高速鉄道網では、東京市内に七つの路線が想定され、品川から新橋を経て浅草、押上へ向かう路線、目黒から新橋、渋谷から新橋、上野浅草、南千住に至る路線、原宿から青山を経て桜田門に向かう路線など、港区域は、市内交通の重要な要地であった。なお、このとき計画された東京市区改正設計高速鉄道網は、大正一四年三月三〇日内務省告示第五六号によって廃止され、「東京都市計画高速度交通機関路線」に置き換えられて、五路線となった。
大正九年に東京地下鉄道株式会社が誕生し、浅草―新橋間の地下鉄道建設を計画した。この路線は浅草から上野、新橋を経て、芝公園から品川に向かう計画であった。ただ、資金難から上野浅草間の建設が優先され、日本初の地下鉄は昭和二年(一九二七)に浅草―上野間が開業した。その後、昭和五年から万世橋、神田、銀座と路線を延長し、新橋まで開通したのは昭和九年であった。
大正一四年(一九二五)に計画された都市鉄道五路線のうち一路線が東京地下鉄道、残りは東京市が事業認可を受けたものの、財政難のなか具体的な工事は進展せず、計画を実現したのが事業を継承した東京高速鉄道株式会社であった。昭和九年(一九三四)に設立された東京高速鉄道は、昭和一〇年から建設を開始し、昭和一三年に、青山六丁目から虎ノ門、続いて青山六丁目から渋谷間が開業し、翌年、新橋から虎ノ門間の開業で全線開通した。これにより、新橋―渋谷間は一三分で結ばれた。その後、東京地下鉄道と東京高速鉄道との間で直通運転が開始され、浅草―渋谷間が三二分、朝晩三両編成で運行され(普段は単車)、二分から三分間隔で運転されることとなった。昭和一六年に両社は、路線を帝都高速度交通営団に譲渡している。港区域内には、青山六丁目(現在の表参道)、青山四丁目(現在の外苑前)、青山一丁目、赤坂見附、虎ノ門、新橋の駅が設置され、今日まで銀座線として利用されている。