関東大震災の影響で、東京市内の集散貨物数量は減少したものの、その後の復興や都市化の影響で、大正一四年時には一六〇〇万トンを数えた(震災以前の大正九年では一二〇〇万トン程度であった)。そのうち、六割ほどの一〇〇〇万トンが鉄道輸送に委ねられ、東北、関東を中心に全国から輸送されていたのである。また東京は消費都市の性格が強いため総数のうち二三パーセントが出貨、残りが入貨の扱いであった。港区域は汐留駅と品川駅が貨物駅として機能し東海道線沿線や関西、近畿からの貨物集散の役割を担っていた。汐留駅は、市内全体の発送量の一四パーセント(四二万トン・第三位)、到着貨物量の一六パーセント(一一五万トン・第二位)を占めていた。到着貨物の特徴として、汐留駅は付近に機械・金属工場が多いことから鉄・鋼製品、石灰や石材、セメントなどを多く扱うほか、果物類(東京市内のうち六二パーセントを占める)、和洋酒、清涼飲料水(同じく六三パーセント)、綿糸布(同じく九〇パーセント)などの取り扱いが多かった。
表3-4-3-1は、大正一四年時の汐留、品川両駅の貨物の仕出・仕向地の一覧である。汐留は東京市中心部との関わりが強いことがうかがえる一方で、品川は港区域や品川駅周辺に特化していたことが確認できる。日本橋、神田、京橋区といった地域にも近い汐留駅は、これら地域の貨物輸送の拠点であり、芝区、赤坂区の一部も範囲としていた。 (高柳友彦)
表3-4-3-1 汐留駅・品川駅の貨物仕出・仕向地
鉄道省運輸局編『東京市及附近貨物集散状況』(帝国鉄道協会、1928)をもとに作成