職業紹介事業は明治末期より東京市により芝区新堀町(現在の芝二~三丁目)に職業紹介所が設けられていたが、大正一二年には日雇労働者の紹介をすすめるべく芝区芝浦に東京市芝浦職業紹介所が活動を開始する。さらにその翌年には婦人奉仕会により婦人奉仕会婦人会館事業部が設置され、芝区愛宕町にて職業紹介のほか結婚紹介活動にも取り組んだ。
職業授産事業では、大正四年より田村彰子らが家庭製作品奨励会を麻布区に立ち上げ、家庭製作品奨励会授産所が裁縫など内職授産を実践した。大正一〇年以降となると東京市により東京市職業補導会(芝区兼房町)、東京市中央授産場(芝区白金志田町)が立ち上げられた。職業補導会では失業者を対象として筆耕技術が、中央授産場では市内住居満一四歳以上の「小額所得階級」の婦女を対象にミシン和服裁縫の技術が伝授された。
止宿する場所のない者に対しては宿泊保護事業の効果が期待された。港区域では明治三三年(一九〇〇)に麻布区広尾町で設立された救世軍東京婦人ホームの活動が知られたが、大正一二年(一九二三)に関東大震災を経験するとこの事業への期待が高まった。震災直後に宿泊が困難な者を収容するための宿泊保護事業が後藤忠助により始められ、大正一三年には芝区芝公園に設けられた縁山簡易宿泊所では一五〇名の宿泊困難者を収容した。また増上寺社会部は芝区芝公園の地で震災で罹災した宿泊困難学生の収容活動を行った。その他、海員およびその遺族の宿泊を保護するべく日本海員救済会は芝区日の出町に日本海員救済会東京船員宿泊所を設置した。
大正期には宿泊保護事業に加えて経済的保護事業として住宅の提供も促進される。東京府は住宅に難渋する者のために芝区車町に住宅を用意した。戸数は三〇戸であった。麻布区広尾町にも同じく東京府による東京府住宅協会広尾住宅が完成し一八戸が用意された。一方昭和期に入ると、内務省の住宅政策として大正期より進められた同潤会アパートの一つとして芝区三田豊岡町に三田アパートメントが完成した(図3-5-1-2)。三田アパートメントはそれまで主流であった木造ではなく鉄筋コンクリート造であったことが当時の人々の関心を呼んだ。
ところで貧困者対策として東京市に方面委員が設置されたことは、三章五節二項で述べたが、これ以外の個別の活動としてはイギリス聖公会の育児事業などが注目された。
イギリス聖公会の宣教団は聖ヒルダ揺光ホームを運営し、芝区白金三光町で育児事業に取り組んだ。加えて聖ヒルダ養老院を立ち上げ養老事業の領域でも活動した。明治二八年(一八九五)の活動開始当初は芝区を拠点として活動したが、その後、麻布区龍土町に移転し、さらに関東大震災後に増加した利用者を収容するべく家屋を増築し事業を拡張していった。この養老院は、家庭的な雰囲気や利用者の労働することのできる尊さを重視すると当時の利用者から評価されていた。
軍人・軍属の遺族・家族の慰安・救助に関しては軍事救護事業として、明治二七年から芝区兵事義会が芝区芝公園芝区役所内で活動した。
婦人の自立に向けた取り組みでは嘉悦孝子らが芝区愛宕町を拠点として婦人奉仕会を立ち上げ、「自活スル婦人ノ保護」、「思想善導身上決定」(東京市社会局保護課編 一九二九)のための相談事業に従事した。
社会事業分野の財政支援活動では、公私社会事業や学校、神社仏閣などへの財政支援団体として麻布区市兵衛町の財団法人原田積善会の活動が注目された。
また、葬儀を取り行うことが困難な者のためには、麻布区仲の町を拠点に浄土宗の寺院・住職たちが葬敬会を結成し、助葬事業に取り組んだ。 (小島和貴)
図3-5-1-2 同潤会三田アパートメント(昭和30年代後半)