3-5 コラム 鈴木文治と友愛会

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 東京都港区芝公園の友愛会館横には「日本労働運動発祥之地」と記された石碑が設置されている(図3-5-コラム-1)。港区域は日本の労働運動に多大な貢献をなしたことで知られる鈴木文治(ぶんじ)(一八八五~一九四六)が、労働者たちを集めて、その自立を達成するべく活動を開始した地である。
 鈴木は宮城県栗原郡金成村(現在の宮城県栗原市)に生まれ、江戸時代の藩校「明倫館」の流れを汲んだ旧制山口高等学校を経て、東京帝国大学に進学した。帝大在学中には社会政策を講じる桑田熊蔵や、本郷教会を主催した海老名弾正の薫陶を受けた。大学卒業の頃にはすでに社会問題としての貧困問題に関心を寄せていた文治は、卒業後、東京朝日新聞社の記者を経て、時代の風潮にも後押しされ、次第に労働問題に傾倒していく。
 鈴木が労働問題に関心を寄せるようになった明治末期から大正期にかけては、西洋の諸思想が日本に紹介される時期であり、社会主義やマルクス主義が紹介されていた。文治の学んだ東京帝国大学では、同郷の先輩である吉野作造が欧州留学より帰国し、女性解放や政治参加の拡大など、「自由」が模索されていた。
 明治三〇年(一八九七)四月には米国より帰国した高野房太郎らにより職工義友会が組織される。そしてこれを母体としてその年の七月には労働組合期成会の結成を見て、『労働世界』と称する機関誌の発行も実現した。さらに同年一二月には機械工の横断組合である鉄工組合、翌三一年には印刷に従事する者たちにより活版工同志懇話会や日本鉄道会社の機関車乗務員により日鉄矯正会の結成が進む。これらの職工による組合活動に対して政府は明治三三年、治安警察法で対抗した。その結果、労働組合活動は制限的なものとなっていった。
 一方、社会主義思想などの諸思想が日本に紹介されたことにより、明治三四年にそれまでの社会主義研究会、社会主義協会の活動を踏まえて、日本で最初の社会主義政党である社会民主党が誕生する。こののち、明治三六年の平民社、同三九年の日本社会党の活動へと続いていくが、社会主義思想の具体化をめぐり、思想上の対立を払しょくすることができず、また、大杉栄や片山潜など中核的人物が明治政府により排除されると、社会主義の政党運動も厳しい制限下に置かれるようになった。
 鈴木が労働者の自立を唱えて活動を開始するのは、労働組合運動や社会主義思想などの具体化が模索され、この活動が政府により制限される時期である。
 鈴木が活動の拠点とする惟一館(芝区三田四国町)のあった芝区には工場が立ち並び、多くの労働者が集まっていたことから次第にその自立の問題に関心を深めていったのである。
 大正元年(一九一二)八月一日夜、鈴木は同志とともに惟一館において、友愛会を結成し、労働者の自立に向けて活動を開始した。「友愛」とはfriendlyを日本語で表現したもので、この鈴木たちの活動を宣言する「友愛会綱領」は、互いの親睦と相愛扶助、「識見の開発」、「徳性の涵養」、「技術の進歩」をもって職工の「地位の改善」を目指した(鈴木 一九三一)。
 
 「友愛会綱領」(大正元年八月一日)
 一、我等は互に親睦し、一致協力して、相愛扶助の目的を貫徹せんことを期す。
 一、我等は公共の理想に従ひ、識見の開発、徳性の涵養、技術の進歩を図らんことを期す。
 一、我等は協同の力に依り、着実なる方法を以て、我等の地位の改善を図らんことを期す。
 
 友愛会は相互扶助的・共済活動的な取り組みのなかに労働者の自立を目指した。労働者の自立を目指すべく労働者自身の自覚の目覚めに期待した。  (小島和貴)
 

図3-5-コラム-1「日本労働運動発祥之地」の石碑(令和3年〈2021〉)
協力:友愛労働歴史館