健康のための第一線の行政機関

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 明治末年から大正期にかけて、乳幼児死亡率の上昇が無視できない状況となってきた。明治一八年(一八八五)に衛生委員を廃止した明治政府は、以後、衛生組合などを活用して感染症対策を進めるが、乳幼児の健康を増進するためにはこれでは十分ではなく、改めて健康のための第一線の行政機関の設置が求められるようになる。この動きを象徴するのが小児保健所や児童相談所の設置である。昭和一二年(一九三七)には保健所法が制定されることから、同法の制定を受けて港区域でも設置に向けて準備が進められるが、これに先立つ動きとして政府の小児保健所、あるいは健康相談所の設置を進めようとする声が強くなっていった。
 乳幼児死亡率の上昇に対する危惧は、大正五年(一九一六)に設置された保健衛生調査会(内務省)でも共有され、その設置当初から、「乳幼児」の死亡率の低減に向けた対応が目指される。そして同会の議論は、「小児保健所」の設置の必要性を導く。この保健衛生調査会が打ち出した「小児保健所」構想に関しては、「小児保健所の構想はまことに卓越したもの」とされた(日本公衆衛生協会編 一九六七)。
 保健衛生調査会では、「差当リ調査研究スヘキ重要ナル問題」は以下のものであった(保健衛生調査会編 一九一七)。
 
 ①乳児、幼児、青年者、壮年者ノ死亡原因及之カ防遏ノ方法
 ②肺結核、花柳病、癩(らい)等ノ予防撲滅
 ③飲食物殊ニ営養物ノ廉価供給方法
 ④都市農村ニ於ケル生活改善等
 
 従前よりコレラに見える急性伝染病に加えて結核やらい(ハンセン病)などの慢性伝染病対策の必要性は理解されてきたが、ここにきて乳児や幼児の「児童保護」に注目が集まるようになる。そこで大正九年の「育児相談所」の設置構想が議論されるようになり、ここでは「巡回員」を設置し、これに家庭訪問を実施させ、産院や「育児相談所」などに「育児用牛乳供給所」を設けることが目指された。この「育児用牛乳供給所」は、母乳での育児が困難な家庭用に、それに代わる栄養の代替源として牛乳を設定し、無料または廉価にて供給することとされた。その後、内務省内で「児童保護」の必要性に対する理解が深められ、大正一一年(一九二二)の氏原佐蔵(うじはらすけぞう)の講演につながった。
 内務省は「児童保護」のうち最も重視すべきは「乳児保護」であるとし、西欧諸国の経験から「乳児相談所」、「良乳供給所」、「乳児院」などの設置を求める。「乳児相談所」の役割は、乳児の診察や授乳の奨励であり、母乳による授乳が困難であるときには母乳に代わる「乳汁」について注意を与えることであった。「良乳供給所」では、適切に管理される乳牛から乳を搾取・滅菌処理したものを「良乳」として供給することが求められていた。また家庭での生活が困難な乳児のために「乳児院」を設置し、昼間のみならず夜間においても、あるいは必要である際には永続して受託保育を提供するとした。
 ただ、内務省は「乳児保護」のみを議論していたのではなく、例えば「幼児保護」のための「託児所」や「幼稚園」の設置も求めていた。「乳児」および「幼児」といった学齢前の「児童」の保護にとくに力を入れる必要性を認めていたのである。これら「小児」の保護を図ることとあわせて、子が健康に生まれることが目指され、妊産婦保護にも注力する。その結果、内務省が新たな機関として期待したのが小児の健全な成長を目指すべく機能する機関であった。西洋ではInfant-Welfare-CenterやInfant Consultationとして認められていたものであり、内務省ではこれを「小児保健所」あるいは「小児相談所」という名称で表現する。名称は異なるものの、これらの機関に共通するのは、①一定の区域を画して活動する、②乳児および学齢前の幼児につき観察指導するという点であった。「小児保健所」では、小児医学に精通する医師、小児の体重や身長など発育記録を作成し保育方法について個別に指導する「保護婦」、そして各家庭を訪問して個別指導を与える「保健婦」の活動が「保健所本来の職分」とされた。また「保健所」の経営は地方の公共団体が主として担うことが予定されていた。
 「小児保健所」は保健衛生調査会でも設置することが必要であるということとなり、大正一五年六月二九日の「小児保健所指針」の作成へと至った。ここでは「小児保健所」には「医師」、「保健婦」、「看護婦」が設置される。「医師」は妊産婦や乳幼児を抱える親らに対して育児の知識や「衛生講和」を行う。「保健婦」は妊産婦や乳児のいる家庭を訪問し「小児保健所」に来所することを説き、あるいはそうした家庭の相談に応じ、「看護婦」は医師の仕事を補助し、牛乳供給の事務を担った。内務省の予定する「小児保健所」に備え付けられる備品、消耗品、そして人件費は表3-5-3-1、表3-5-3-2、表3-5-3-3のとおりであった。
 こうして内務省の主導により作成された大正一五年の「小児保健所指針」に見る小児の健康のための第一線の行政機関を設置しようとする力学は地方の行政にも波及していく。その結果、東京市域には「小児保健所」あるいはそれに類する機関の設置が進められていった。
 

表3-5-3-1 小児保健所の備品費(単位:円)

保健衛生調査会『保健衛生調査会報告書 第11回』(保健衛生調査会、1927)をもとに作成

表3-5-3-2 小児保健所の消耗品費(単位:円)

保健衛生調査会『保健衛生調査会報告書 第11回』(保健衛生調査会、1927)をもとに作成

表3-5-3-3 小児保健所の人件費(単位:円)

保健衛生調査会『保健衛生調査会報告書 第11回』(保健衛生調査会、1927)をもとに作成