東京都心・皇居に近く、軍事施設が配置され政財界の要人が居住する港区域は、彼らを標的とした軍部急進派による政治テロ事件の舞台となった。昭和七年(一九三二)の五・一五事件では、立憲政友会総裁の犬養毅総理大臣らが暗殺されたが、国際協調、立憲政治擁護の立場から摂政宮(のちの昭和天皇)を補佐した牧野伸顕内大臣も急進派青年将校から親英米派・自由主義者と目され、その襲撃対象となった。海軍中尉古賀清志ら軍人決死隊・第二班は、高輪の泉岳寺に集合した後、芝区三田台町の牧野内大臣官邸を襲撃したが、警戒中の芝三田警察署員が負傷しつつも彼らの屋内侵入を阻止した(警視庁史編さん委員会編 一九六二)。
昭和一一年(一九三六)の二・二六事件では、陸軍皇道派の拠点と目された赤坂区青山南町の第一師団の満州派遣決定を契機として、同師団の歩兵第一連隊(赤坂檜町)、第三連隊(麻布新龍土町)および近衛歩兵第三連隊(赤坂一ツ木町)といった麻布・赤坂を兵営とする部隊が反乱軍として武装蜂起した。その襲撃対象の一つが、仙台藩士の養子として芝愛宕下の仙台藩伊達家中屋敷で育った高橋是清大蔵大臣(一八五四~一九三六、図3-5-4-1)の私邸(赤坂表町)であった。また反乱軍に占拠された警視庁の勤務員は、赤坂表町警察署など都心部の四警察署に集合待機とされた。 (福沢真一)
図3-5-4-1 高橋是清
『近世名士写真其1』(近世名士写真頒布会、1935) 国立国会図書館デジタルコレクションから転載