戦間期の港区の治安状況

121 ~ 123 / 405ページ
 明治以来、港区域は東京都心部の拡大や鉄道網整備などにより国家機能の中枢の一角となって政財界の要人が居住する地域となった。一方、芝区は港湾部を中心に工業化が著しく進展して労働者階級の街が形成されていた。新橋駅などを含む芝区北部を管轄する芝愛宕警察署管内では、鉄道駅や水交社(海軍将校の親睦・扶助団体)、紅葉館など社交施設を利用する要人警備、駅周辺の繁華街での各種営業や交通取り締まり、浮浪者取り締まり、また特高警察の対象として芝公園や芝浦埋立地でのメーデー示威行為や建国祭など屋外集会取り締まり、芝公園内の協調会館(騒動後の労働運動の高まりに対応して原内閣が設立した労使協調のための財団法人の本部。労組などの集会会場としても提供されていた)などでの屋内集会取り締まり、管内に多数存在する左翼・右翼思想団体の監視や取り締まりが重要な任務となっていた。一方、芝浦地区などを管轄する芝三田署管内では埋立地に集まる大工場の労働者、港湾施設で働く土工や沖人夫、朝鮮系住民など人口増加が著しく犯罪も増加しており、海岸通二丁目に臨時警戒所を設けるなどの措置がとられていた(『芝区誌』一九三八)。このような芝区の状況に対して、赤坂区では赤坂離宮など皇宮地、皇族の邸宅が多くその警備が重要であり(『赤坂区史』一九四一)、山の手の邸宅地となっていた麻布区では、大工場が少なく労働争議への対応の必要性は低いとされていた(麻布鳥居坂警察署編 一九三一)。
 東京都心・皇居に近く、軍事施設が配置され政財界の要人が居住する港区域は、彼らを標的とした軍部急進派による政治テロ事件の舞台となった。昭和七年(一九三二)の五・一五事件では、立憲政友会総裁の犬養毅総理大臣らが暗殺されたが、国際協調、立憲政治擁護の立場から摂政宮(のちの昭和天皇)を補佐した牧野伸顕内大臣も急進派青年将校から親英米派・自由主義者と目され、その襲撃対象となった。海軍中尉古賀清志ら軍人決死隊・第二班は、高輪の泉岳寺に集合した後、芝区三田台町の牧野内大臣官邸を襲撃したが、警戒中の芝三田警察署員が負傷しつつも彼らの屋内侵入を阻止した(警視庁史編さん委員会編 一九六二)。
 昭和一一年(一九三六)の二・二六事件では、陸軍皇道派の拠点と目された赤坂区青山南町の第一師団の満州派遣決定を契機として、同師団の歩兵第一連隊(赤坂檜町)、第三連隊(麻布新龍土町)および近衛歩兵第三連隊(赤坂一ツ木町)といった麻布・赤坂を兵営とする部隊が反乱軍として武装蜂起した。その襲撃対象の一つが、仙台藩士の養子として芝愛宕下の仙台藩伊達家中屋敷で育った高橋是清大蔵大臣(一八五四~一九三六、図3-5-4-1)の私邸(赤坂表町)であった。また反乱軍に占拠された警視庁の勤務員は、赤坂表町警察署など都心部の四警察署に集合待機とされた。  (福沢真一)
 

図3-5-4-1 高橋是清

『近世名士写真其1』(近世名士写真頒布会、1935) 国立国会図書館デジタルコレクションから転載