大正元年九月一三日、明治天皇の大喪の礼が、青山の練兵場で執り行われた。東京市長の阪谷芳郎の日記によると、数日来降り続いた雨が一二日には止み、一三日は晴天であったという。その日の夜、乃木夫妻が「殉死」した。翌日より、各新聞はこれを競うように報じた。九月一六日には、「乃木大将の精忠日月を貫くは楠公に劣らずして其夫子夫妻一家を挙げて君国に殉するに至りては寧ろ之に優る」ことから、「国費を以て乃木神社を建設し別格官幣社」に列するべきである、との主張が掲載された(『東京朝日新聞』大正元年九月一六日付)。一〇月三日、現在の千代田区飯田橋にあった國學院大學講堂にて、乃木大将追悼会が開催された。この場で、「夫妻の英霊を不朽に祭祀せんことを希望」して、乃木神社創立が決議されたのである(『東京朝日新聞』大正元年一〇月四日付)。
なお、乃木夫妻の葬儀が執り行われた大正元年九月一八日、乃木邸の前から西に向かう坂の名称が、幽霊坂から乃木坂へと改められた。
さて、九月一七日より、赤坂区の乃木邸の保存に関する話し合いが、東京市長の阪谷のもとで行われた。乃木夫妻は三男一女をもうけたが、長男、次男はすでに日露戦争で戦死しており、長女、三男も夭逝していた。自邸を東京市または赤坂区に寄付することが、乃木の遺言であった。乃木邸の行方は多くの関心を集めており、九月二一日には、赤坂区会議員の藤原俊雄、詫摩武彦が阪谷のもとを訪ねている。
一〇月二六日、阪谷、東京市助役の田川大吉郎、陸軍大佐の塚田清市、乃木の甥である玉木正之が会合した。玉木より、「其儘を保存」することを条件に、乃木邸の東京市への寄付が打診され、阪谷もこれを受け入れた(『阪谷芳郎 東京市長日記』大正元年一〇月二六日条)。なお、玉木は乃木邸に住んでいたのだが、立ち退くことを表明している。
大正元年一二月二〇日、玉木が、乃木家を祀る乃木小社の設立のために二〇〇〇円の寄付を阪谷に打診した。翌二年一月三〇日には、乃木家の霊を家廟から乃木小社に移す移霊祭が執り行われている。次いで四月一三日、「故大将ノ遺蹟保存ニ関シ東京市ト連絡シ故大将邸隣接地ニ社ヲ建設シ大将ノ英霊ヲ永久ニ祭祀スルコト」などを目的に、乃木会の結成が発表された(「乃木会趣意書並規程附役員及発起者氏名」)。六月一六日、阪谷が会長に就任する。そのほか、副会長に中野武営(なかのぶえい)、監事に渋沢栄一と森村市左衛門、評議員に鳩山一郎、辰野金吾、大倉喜八郎など、錚々たる面々が名を連ねた。
大正三年九月一三日には、乃木小社での祭典が催され、阪谷や川村景明、木戸幸一、渋沢栄一らに加え、「学習院生徒軍人等百餘名」が集まった(『東京朝日新聞』大正三年九月一四日付)。以後、神社設立の寄付金募集が続く。そのなかで、祭典は継続された。
大正八年になり、資金の目処がついたことから、三月に乃木神社の設立が内務省に申請され、五月三日に許可された。大正九年一一月一日の明治神宮(現在の東京都渋谷区)の創建を待って、乃木神社の造営が開始となった。
ようやく、大正一一年五月二三日に乃木邸の隣地にて地鎮祭が、翌年一一月一日に乃木神社の鎮座祭が催された。このとき、本殿・神饌所・中門(仮拝殿)・社務所・二の鳥居・手水舎が竣工した。設計者は、日光東照宮(現在の栃木県日光市)の修復や明治神宮の造営などに携わった大江新太郎である。大江は、設計にあたって、「上古神代の様式を選」んだと語っている(『都新聞』大正一二年四月二六日付)。これは、乃木の嗜好に配慮したものと考えられよう。
翌一三年八月九日、乃木神社は府社に列せられた。
現在、乃木邸および乃木邸に隣接する馬小屋は、港区指定有形文化財となっている。明治三五年(一九〇二)に竣工した母屋は、非常に簡素なものである。当時、洋風の豪華な住宅が流行していたことを踏まえると、乃木の堅実な性格が垣間みえる建築だと言えよう。関東大震災やアジア・太平洋戦争による被害も軽微であったため、今日でも建築当初の姿が保たれているとされる。
なお、赤坂区以外にも、乃木を祀る乃木神社が各地に設立された。これを創建順に挙げると、栃木(那須、大正四年)、京都(伏見、大正五年)、山口(長府、大正九年)、香川(善通寺、昭和一〇年)となる。 (久保田哲)
図3-6-1-1 戦前の乃木神社