霊友会は、麻布台一丁目に本部を持つ宗教団体である。同会ホームページによると、令和二年(二〇二〇)一二月三一日現在で、信者数は約二六〇万人に上っている。霊友会の起源は、戦間期にさかのぼる。
霊友会の創立者である久保角太郎(一八九二~一九四四)は、明治二五年(一八九二)一月、松鷹家の四男として、現在の千葉県鴨川市に生まれた。尋常小学校を卒業したのち、明治三八年に上京し、大工として働いた。その一方で、現在の工学院大学の前身である工手学校建築学科に学び、大正七年(一九一八)に卒業する。翌八年より、宮内省内匠寮に勤めた。
大正九年頃より、角太郎は久保志んと共に暮らすようになった。久保家は、但馬国出石藩の藩邸に詰めていた家臣の家柄である。志んは、夫も娘も亡くし、養子候補を探していたのである。なお、久保家の家屋敷は、同藩の藩邸が置かれていた芝区神谷町(現在の虎ノ門五丁目)にあった。
一方の角太郎は、宮内省での精勤ぶりが同省宗秩寮宗親課長の仙石政敬に評価された。仙石は、出石藩の藩主仙石家の宗家嫡子であり、彼によって角太郎は久保家の養子候補者に推薦されたのである。そして大正一一年二月、角太郎は久保志んの養子となった。
さて、久保家に住み始めた大正九年頃、角太郎は、西田無学(利蔵)が編み出した法華経の解釈に基づく先祖供養の修法を知った。これに傾倒し、西田の弟子である増子酉治(ますことりじ)を訪ねたほどである。増子の影響により、角太郎は法華経の研究に取り組むこととなった。角太郎が研究を始めた当時の解釈によれば、先祖が霊界に成仏していると、現世の子孫たちにも幸福が訪れる。他方で、地獄などで苦しみを受けていると、現世の子孫たちにも災厄が降りかかる。つまり、本来法華経(仏教)が存在を認めていない霊魂を肯定するところに、角太郎の独自性があった。これが、のちに霊友会の教えに結びつくこととなる。
角太郎が霊魂に着目した理由としては、日蓮宗中山門流系の霊能者・若月チセの影響があると思われる。霊魂の呼び出しや悪霊などの除霊を行う若月に、久保は大きな関心を抱いた。大正一三年、久保は若月の後援会として霊友会(南千住霊友会)を起こした。こののち、久保は霊魂に否定的な増子と疎遠となる。また、若月との関係も長続きせず、解消となった。
ところで、霊友会が発展し、拡大した背景には、角太郎だけでなく小谷喜美(こたにきみ)の存在があった。大正一四年、角太郎の実兄である小谷安吉が飯田喜美と結婚した。しかし、安吉は腰に難病を抱えていた。角太郎は、安吉の難病を完治させるために必要だとして、水行や読経、断食などの過酷な修行を喜美に課す。昭和四年(一九二九)に安吉が死去したのちも、修行は続けられた。こうしたなかで、先祖供養の態度や日常生活のモラルを徹底して指導された喜美に、霊能力が身に付いたと言われる。
かくして昭和五年七月、角太郎を理事長、喜美を名誉会長とする霊友会の発会式が挙行された(図3-6-2-1)。会場は、赤坂区青山南町六丁目(現在の南青山五丁目)にあった青山会館である。この当時、霊友会の本部は、赤坂区伝馬町(現在の元赤坂一丁目)にあり、久保家所有の借家であった喜美の家に置かれた。当時の信者は五〇〇名ほどであったという。
霊友会は、法華経を所依の教典とし、僧侶に頼らず、夫方・妻方(未婚の場合は父方・母方)両家の先祖供養を教義の中心に据えた。信者が法華経の教えを実践することで、親・先祖から受け継いだものを良い方向に変えていく。これこそ真の先祖供養ではないか。一人ひとりが生命の「源」を感じ、心と行いを改めることで、初めて社会は変わっていくと説くのである。霊友会は、その発会以降、東京の下町を中心に信者を増やしていった。さらに、京浜地方、阪神地方にも勢力を広めた。昭和六年から七年頃、支部組織が構成された。昭和一二年には、本部が麻布区飯倉(現在の麻布台一丁目)に移り、講堂が建設された。二〇万人ほどに膨れ上がった信者を収容できる施設が求められたのである。
同じ頃に霊友会から複数の派が分裂し、立正佼成会などが誕生した。そのほか、霊友会より離脱・派生した諸教団には、日本敬神崇祖自修団、妙智会、思親会、孝道教団、正法会などがある。
なお、港区域では霊友会のほかに、昭和五年に誕生した「生長の家」が、昭和一〇年に赤坂区檜町(現在の赤坂九丁目)に移転してきた。翌一一年に教化団体として登録されている。しかし、戦災もあり、戦後に渋谷区へ移転した。 (久保田哲)
図3-6-2-1 霊友会発会式(昭和5年〈1930〉7月13日)
提供:霊友会