第一次世界大戦とワシントン体制

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 大正三年(一九一四)六月二八日にオーストリア=ハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナント夫妻がユーゴスラビア民族主義者によって暗殺されたサラエボ事件を契機として勃発した第一次世界大戦は、ヨーロッパを中心に広範な地域を戦火に巻き込んだ。第一次世界大戦は、全体で約九〇〇万人の軍人と約七〇〇万人の民間人の犠牲者が出るなど、未曽有の損害を各国に与えた。
 日本は日英同盟を理由に大正三年八月二三日に対独宣戦布告を行い、中国山東半島および膠州(こうしゅう)湾、南洋諸島などのドイツの拠点を攻撃・占領した。主戦場がヨーロッパであったことから日本の参戦は限定的であったが、大戦により軍需物資や生活必需品などの供給が困難となったヨーロッパへの輸出などから、国内は大戦景気と呼ばれる好景気に沸くこととなった。また、中国におけるドイツ植民地の利権を継承するために対華二一か条要求を中国政府に対して行い、戦後、中国や満州における権益をめぐって中国・欧米諸国との紛争を誘引することになる。
 大正六年四月一六日にアメリカがドイツに対して宣戦布告をし欧州への派兵を行ったことで、ドイツの戦況はしだいに不利になっていき、大正七年一一月一一日に連合国との間に休戦協定を締結して、事実上降伏した。なお、最終的に戦争状態が解消されたのは、翌八年六月二八日のヴェルサイユ条約締結による。
 第一次世界大戦がもたらした惨禍(さんか)に対して、国際協調主義の立場からアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンの提唱によって大正九年に国際連盟が創設され、日本はイギリス・フランス・イタリアとともに常任理事国となった。しかし国際連盟は、アメリカがモンロー主義を採る議会の反対によって加盟しなかったことや、条約や協定の違反に対して軍事的制裁手段を持たなかったことなどから、紛争の抑止には十分な影響力を持ち得ず、のちの第二次世界大戦の勃発を防ぐことができなかった。
 一方で、日本の中国進出を警戒した欧米各国は、大正一〇年一一月より開かれたワシントン会議において、参加国すべてによる九か国条約を締結し、中国の門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を確認した。また、アジア・太平洋地域における安定や各国の権益の保護などを目的として、日・米・英・仏の間で四か国条約が締結された。ワシントン会議においては、第一次世界大戦後も過熱化していた日・米・英などの主要海軍国における建艦(けんかん)競争を抑制し、海軍力の軍縮と均衡の維持を目的としてワシントン海軍軍縮条約が締結された。同条約では、英・米・日・仏・伊の五か国において、戦艦や空母などの主力艦の保有量を、排水量比において五:五:三:一・六七:一・六七と定めた。ワシントン会議における九か国条約・四か国条約・ワシントン海軍軍縮条約から成る、アジア・太平洋地域および中国における安定を企図した国際体制を「ワシントン体制」と呼ぶ。