日本は、第一次世界大戦には本格的な派兵をしなかった。しかし、大正七年(一九一八)、ロシア革命に対する干渉として、第一次世界大戦における連合国がチェコ兵救出を名目にシベリア出兵を行うと、日本もこれに参加した。日本は七万三〇〇〇名に及ぶ大兵力を派兵し、他の連合国が撤兵した大正九年以降も単独でシベリア駐留を続けたことなどから各国より批判を受けることとなった。結局、大正一一年一〇月に日本も撤兵を完了するが、国内においても出兵に伴う負担に対する世論の批判が強まり、陸軍に対する軍縮要求につながったとみることもできよう。
さらには、第一次世界大戦後の日本では、大戦景気の終了とその反動による大規模な不況に見舞われており、平時における多額の軍事費は批判の対象となっていた。
こうして加藤友三郎内閣は陸軍の軍縮に着手した。これは、同内閣の陸軍大臣であった山梨半造の名を採り、「山梨軍縮」と通称されている。建軍以来、拡張の一途をたどっていた陸軍は、初めて軍縮に踏み切ることになった。
「山梨軍縮」は、大正一一年の第一次軍事整理と翌一二年の第二次軍事整理の二段階で推進された。第一次軍事整理は「大正一一年軍備整理要領」に基づいて進められ、三個野戦砲兵旅団司令部、六個野戦重砲兵連隊、一個山砲兵連隊、一個重砲兵連隊のそれぞれを廃止し、将校一八〇〇名、下士官・兵五万三七二九名と一万三〇五三頭の軍馬の整理を行った。続く第二次軍事整理では、鉄道材料廠(しょう)、近衛師団および第四師団の軍楽隊や仙台陸軍幼年学校などを廃止し、将校四〇〇名、下士官・兵六五〇〇名、文官七一名、馬三四五頭の整理を行った。「山梨軍縮」においては、大隊を歩兵四個中隊編制から三個中隊編制に減ずる措置を採っており、これが人員整理に大きく貢献した。ただし、単純な人員削減ではなく、歩兵一個中隊を減ずる代わりに各大隊に機関銃や歩兵砲などの配備を行い、軍縮と同時に装備の近代化による火力の強化を試みたといえる(「昭和財政史資料」)。
「山梨軍縮」は人員の削減とともに装備の近代化を試みたが、大正一二年に発生した関東大震災の影響や、日本の基礎的な工業力の低さなどとも相まって近代化が十分に進まず、また、師団などの削減には着手しなかったため、結局、十分な成果を得られなかった。このため、大正一四年、加藤高明内閣の宇垣一成陸軍大臣のもとで再び陸軍の軍縮が進められた。これは「宇垣軍縮」と通称される。
「宇垣軍縮」においては、第一三(高田)・第一五(豊橋)・第一七(岡山)・第一八(久留米)の四個師団の削減と連隊区司令部一六か所の廃止のほか、広島・熊本の陸軍幼年学校の廃止、陸軍衛戍(えいじゅ)病院分院四か所の廃止、陸軍東京経理部の廃止など、部隊・行政の双方にわたって組織の縮小が行われ、約三万四〇〇〇名の将兵と約六〇〇〇頭の軍馬が整理された。とくに師団の廃止は、師団長や旅団長が将官のポストであることから将官の人事問題と連動するために「山梨軍縮」では着手されなかった問題でもあった。ただし、いわゆる伝統ある連隊を避けるために、比較的新しく設置された師団を中心とした整理であり、師団の廃止がそれぞれの衛戍地(えいじゅち)に与える精神的・経済的影響を考慮して、大隊などを分駐させるといった配慮がなされている。
代わって、第一次世界大戦で欧州各国が使用した新兵器である航空部隊の充実や戦車隊・高射砲隊の創設、自動車学校や通信学校の新設など、陸軍の近代化を一層強く志向した改革を行った。
「山梨軍縮」および「宇垣軍縮」によって陸軍は平時における戦力の三分の一にあたる約一〇万名の兵力を整理したが、近代化のための部隊の新設や装備の改変などを同時に進めたため、軍事費としては軍縮前と比較して一〇分の一程度の削減に留まっている(「昭和財政史資料」)。
なお、海軍では、ワシントン条約における制限の対象外となった巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などの補助艦艇の建艦競争がかえって過熱化したため、昭和五年(一九三〇)にロンドンで開かれた軍縮会議において、補助艦も対象としたロンドン海軍軍縮条約が締結された。この条約では、補助艦の保有量を排水量比で英・米・日を一〇対一〇対六・九七五と定めたが、対英米七割確保を求めた海軍軍令部は条約批准に反発し、いわゆる海軍省を中心とする条約派と軍令部を中心とする艦隊派の対立を生ずることになった。
ところで、大戦間期においては陸海軍ともに軍縮が進められているが、同時期における港区域の徴兵事務はいかなる影響を受けているのか、確認したい。
表3-7-1-1は、『芝区誌』に記載された統計をもとに、明治期から昭和初期にかけての芝区における徴兵に関する動向を整理した表である。満二〇歳となり徴兵検査を受検した壮丁(そうてい)の人数、徴兵検査に合格して現役兵として入営した人数、そして補充兵役などの徴集対象者数をそれぞれまとめた。
表3-7-1-1における日露戦争期以降の動向を確認してみると、大正年間は『芝区誌』における統計が陸海軍合計のため、純然たる陸軍の現役兵のみとは言い難い点はあるものの、昭和二年以降は、それ以前と比較した場合、現役については二〇〇名前後から一六〇名前後へと二割程度の減少があり、大隊が四個中隊編制から三個中隊編制へと変更された「山梨軍縮」の影響を認めることができる。一方、麻布区および赤坂区では芝区のような長期間にわたる統計が示されていないため、同一基準での比較は困難であるが、『赤坂区史』に掲載された統計に基づいて軍縮の前後を比較すると、軍縮前の大正一〇年(一九二一)では、壮丁三四七名に対して現役兵九六名、補充兵役一一六名であったが、大正一五年では、壮丁三二五名に対して現役兵四二名、補充兵役九六名と大幅に減少しており、軍縮の顕著な影響を確認できる。『麻布区史』では、明治三五年(一九〇二)から大正二年(一九一三)までと昭和元年(一九二六)から同一二年までの徴兵検査受検者数と合格種別ごとの人数は示されているが、現役兵として入営した人数は明らかになっておらず、さらに、軍縮着手前後の時期の統計が示されていない。
芝区と赤坂区の比較からは、同じ港区域にありながら、軍縮の影響については両者の間に差異が生じている。もっとも、双方ともに「宇垣軍縮」による現役の減少を認められることから、戦間期においては港区域における徴兵に軍縮の影響を認めることはできよう。
なお、大正一四年(一九二五)にソ連との国交回復を行ったことを受けて、同年に法律第四六号「治安維持法」が制定され、その後の改正で厳罰化などが進んでいったことが背景にあり、昭和に入ると軍内部においても「思想上要注意者」に対する処分が行われるようになった。近衛歩兵第一連隊や歩兵第一連隊所属の幹部候補生が共産主義思想などを理由として退営処分を受けている(『密大日記』昭和三年)。いずれも東京の大学を卒業後に陸軍の幹部候補生となっているが、麻布連隊区の管轄地区の出身であった。ちなみに、幹部候補生とは昭和二年(一九二七)に定められた制度で、主に旧制高校や大学の卒業者などを対象に、一〇か月から一年の修業期間を経て予備役将校を養成しようとするものであった。東京は大学などの高等教育機関が多いため、「東京の師団はインテリが多い」などという俗言もあったが、政治思想をめぐる問題は、東京府の徴兵を管轄した麻布連隊区ならではの問題であったといえるかもしれない。
表3-7-1-1 芝区における徴兵状況
注)表中、明治37年から43年および大正3年から15年は、統計上、陸海軍の合計となっているため海軍も含む。
『芝区誌』(1938)をもとに作成