満州事変

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 第一次世界大戦に際しての対華二一か条要求などを契機として高まっていた中国国内の反日感情はその後も衰えることはなかった。一方で、満州における権益の拡大を図る関東軍は、奉天を拠点とする親日派軍閥の張作霖(ちょうさくりん)との提携を強化していたが、張作霖は中国国内における反日・排日運動の高揚の影響と欧米各国による支援などを期待して、次第に日本と距離を置くようになっていた。さらに、張作霖がいわゆる満鉄の並行線建設に着手して日本の権益を阻害する動きをみせたため、関東軍参謀の河本大作らが中心となって張作霖爆殺事件(満州某重大事件)を起こして張作霖を暗殺した。
 張作霖の息子である張学良は日本との対決姿勢を明らかにし、蔣介石(しょうかいせき)率いる国民党政府に合流した。その後、陸軍参謀本部の中村震太郎が日本人の立入禁止区域とされていた大興安嶺山脈東側地域を調査旅行中に、張学良指揮下の中国軍によって拘束・殺害される中村大尉事件が発生すると、日本の世論は対中非難で沸騰した。関東軍はこうした世論に乗じて、武力行使を伴う満州での権益拡大に乗り出していった。
 昭和六年(一九三一)九月一八日、奉天郊外の柳条湖において満鉄の線路が爆破されたが、関東軍はこれを張学良による破壊工作と断じて、中国軍に対する軍事行動を開始した。柳条湖事件として知られるこの事件は、関東軍参謀の板垣征四郎と石原莞爾(かんじ)が主導した自作自演であったことが明らかにされている。
 若槻禮次郎内閣や陸軍省・参謀本部などの陸軍中央は、事態の不拡大と外交交渉による解決を指示したが、朝鮮軍司令官林銑十郎が関東軍支援のために独断で朝鮮軍を越境させるなど、現地では中央の意向を無視して戦線を拡大していった。一〇月には張学良が拠点を移した錦州に対する爆撃を行い、昭和七年二月には、北部満州のハルビンを占領して満州全域を関東軍が制圧している。
 関東軍は、国際世論の非難を回避するために清朝最後の皇帝であった宣統帝溥儀(ふぎ)を擁立して三月一日に満州国建国を宣言するが、ときの総理大臣の犬養毅はその承認には消極的であった。しかし、五・一五事件で犬養が暗殺されると、新たに総理大臣となった斎藤実(まこと)のもとで満州国承認と日満議定書の締結が行われ、満州国における関東軍の駐留や日本の在満権益の承認などが確認された。
 一方、中国の要請によって派遣されていた、ヴィクター・ブルワー=リットンを委員長とする国際連盟の調査団(「リットン調査団」)が提出した報告書において、柳条湖事件における日本の行動は自衛権の範囲にあると認められないということと、満州国建国の自発性は認められないということが述べられていた。なお、報告書では、柳条湖事件以前への原状回復や満州国の承認は現実的解決策とはならないとして、日本の満州における権益を認めた上での日中両国における不可侵条約および通商条約の締結や、中国の主権下に満州に自治政府を樹立し、国際連盟が派遣する外国人顧問のもとで十分な行政権を認め、その外国人顧問の大半に日本人を起用することを認めるなど、実質的に日本の満州における権益を了承する解決案が示されたが、満州国の承認を求める日本はこれを受け入れず、昭和八年三月八日に国際連盟の脱退を決定して二七日にこれを通告するなど、国際的孤立を深めていった。
 国際連盟脱退後も日本は中国との戦闘を続け、熱河(ねっか)作戦では遂に万里の長城を越えての南進に踏み切った。蔣介石が共産党に対する攻撃を優先する方針を改めなかったことや、日本に北京や天津などを占領する意図がなかったことなどから、日中両国間で停戦交渉が進められ、五月三一日に日中両国間で塘沽(タンクー)停戦協定が締結された。これにより、柳条湖事件以来の両国の軍事衝突は終結したが、この協定で中国が満州国を承認したわけではなかったため、満州国をめぐる日中間の懸案は残されることになった。