第一次世界大戦後の長引く不況に加えて、関東大震災による震災恐慌、昭和二年(一九二七)の金融恐慌、そして昭和四年の世界大恐慌などにより日本経済は疲弊し、農漁村の窮状は深刻化していた。
一方で、陸軍内部においては、荒木貞夫や真崎甚三郎を中心とする皇道派と、永田鉄山や東条英機を中心とする統制派の間で対立が生じていた。皇道派は政治腐敗などの現況を元老や重臣などと捉え、彼らを排除することで天皇親政を実現して諸問題を解決することを目指していたのに対し、統制派は第一次世界大戦以降の世界の趨勢(すうせい)から総力戦体制の構築を大臣を通じた合法的手段で軍が主導して進めることを目指しており、「昭和維新」を掲げ、武力蜂起を肯定する皇道派の主張に対して否定的であった。また、皇道派が青年将校と呼ばれた各部隊の指揮官などを中心としたのに対し、統制派は陸軍大学校を卒業して、参謀職などを務める陸軍中央のエリートが中心であったことなど、両派にはその主張や構成に大きな違いがあった。
皇道派と統制派の対立は、荒木の犬養毅内閣での陸軍大臣就任とその辞職などにより、陸軍中央の人事なども巻き込むかたちで続いた。昭和一〇年八月一二日に、永田鉄山軍務局長を、皇道派に共感する相沢三郎中佐が永田の執務室で白昼に暗殺する事件が発生すると(相沢事件)、これを受けて陸軍中央は、皇道派青年将校が多く所属していた第一師団を東京から満州に移駐することを決定したとされる。
昭和一一年二月二〇日に第一師団の満州移駐が命ぜられると、皇道派青年将校たちは、二六日未明に部下にあたる下士官・兵を率いて決起に踏み切った。決起に参加したのは、歩兵第一連隊および歩兵第三連隊、近衛歩兵第三連隊、野戦重砲兵第七連隊であり、総数で一四五三名であったが、第一師団隷下の歩兵第一・第三連隊が多数を占めた。ちなみに、歩兵第三連隊からは、士官九名、下士官六四名、兵八七四名、合計九四七名が決起部隊に加わっている。
なお、歩兵第三連隊の記録である『聯隊歴史』(第四巻)によれば、決起当時の様子は以下のとおりであったようである。第一中隊付の坂井直(なおし)中尉が、二五日午後九時頃に中隊の下士官全員を将校室に集めて、「昭和維新」決行のために斎藤実内大臣を襲撃する旨を伝え、中隊長も承知しているとして下士官を説得した。下士官の先任者であった末吉曹長はこれを疑問としつつも就寝したが、深夜〇時頃に坂井が再び下士官を集めて襲撃計画の詳細を説明し、部隊の出動準備を始めたため、末吉は非常事態と判断して中島軍曹とともに矢野中隊長に報告することを決意して兵舎を秘かに抜け出した。午前三時二〇分頃に矢野の自宅に到着した末吉の報告を受けた矢野は急遽登営したが、すでに坂井が部隊を率いて出発したあとであったため、決起の事実を知った矢野は、連隊に非常呼集を駆けるとともに、伊集院兼信第二大隊長および野津敏第三大隊長に報告した。状況は野津によって東京警備司令部および第一師団司令部に報告され、さらに野津から報告を受けた渋谷三郎連隊長が午前六時一五分頃に登営すると、連隊としての対応が本格的に始まり、警視庁を占拠していた決起部隊の安藤輝三(てるぞう)大尉らに対する説得などが開始された。この後も、第三連隊所属の決起将校などに対する説得はたびたび行われているが、十分な成果を得られず、二九日に至っている。
決起部隊は、総理大臣官邸・警視庁・内務大臣官邸・陸軍省・陸軍大臣官邸・参謀本部・東京朝日新聞本社などを占拠し、岡田啓介総理大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実内大臣、牧野伸顕前内大臣を襲撃した。この襲撃によって、高橋、渡辺、斎藤と、岡田と間違われた首相秘書官の松尾伝蔵および護衛の警察官五名が殺害され、鈴木が重傷を負っている。
同時に、決起部隊は、川島義之陸軍大臣をはじめとする陸軍首脳を通じて昭和天皇に対して「昭和維新」の実現を訴えたが、決起部隊がテロによって重臣や閣僚を殺傷したため、天皇は断固としてこれを拒否した上で、その鎮圧を陸海軍に命じた。
二七日には戒厳令発令が決定されるとともに、決起部隊将兵に対して原隊への復帰を命ずる奉勅命令が裁可され、翌二八日午前五時に伝達された。これにより、天皇が「昭和維新」を否定したことが明確に示されることになった。さらに、二八日夜には武力による鎮圧と決起部隊を「反乱部隊」とすることが決定され、翌二九日午前八時三〇分には、ついに決起部隊に対する攻撃命令が下された。このとき、「兵に告ぐ」と題したラジオ放送や「下士官兵ニ告グ」の伝単(でんたん)(ビラ)、「勅命下る 軍旗に手向かふな」と記されたアドバルーンなどが用いられ、決起部隊に対する投降が呼びかけられた。その結果、午後二時頃までには下士官・兵のほとんどは投降して原隊に戻り、武力鎮圧に移ることなく事件は終息した。
なお、二・二六事件においては、港区域とその周辺は事件の主要な舞台となった。決起した皇道派青年将校たちは、歩兵第一連隊近傍にあった日本における洋食店の草分け的存在の一つである「龍圡軒」で会合を重ねている。龍圡軒は、その立地から陸軍将校の多くが客となっていた。また、襲撃を受けた高橋是清の私邸は赤坂区にあり、斎藤実の私邸は四谷区ではあるが、青山御所や赤坂離宮に程近い場所であった。
決起部隊が本部を置いた山王ホテルや、その将兵の多くが駐屯した料亭「幸楽」も日枝神社の南側、いわゆる赤坂山王下にあり、歩兵第一連隊や第三連隊、近衛歩兵第三連隊の駐屯地や第一師団司令部の間近にあって、決起部隊と鎮圧部隊の双方が防衛線を敷いて赤坂見附から虎ノ門にかけての一帯で対峙する様相を呈していたのである。