満州事変後、塘沽停戦協定の締結により日中関係は一時的に安定をみせたが、天津に駐屯していた支那駐屯軍や関東軍は、華北における日本の影響力の拡大を図って、いわゆる華北分離工作を展開し、昭和一〇年(一九三五)一二月に日本の傀儡(かいらい)政権である冀東防共(きとうぼうきょう)自治政府を樹立した。その後、中国各地で発生する日本人の殺害事件などをめぐって、日中両国の関係は停滞・冷却化していった。
一方で、昭和一一年一二月の西安事件で張学良が蔣介石を監禁して周恩来ら中国共産党との協力を約束させたことにより、中国における国民党と共産党の間の内戦は休戦となり、日本に対する統一戦線が形成されていくことになる。
昭和一二年七月七日、北京郊外の日本軍と中国国民党軍の間で生じた衝突事件である盧溝橋(ろこうきょう)事件を契機として、日中両国間は戦争状態となった。もっとも、第一次近衛文麿内閣は不拡大方針で中国との交渉に臨んだが、二五日に北京近郊で再び日中両軍が衝突したことから日本軍は総攻撃に踏み切り、北京や天津を占領した。
さらに上海において、上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫大尉が中国軍に殺害され、その後、中国軍が上海の日本租界を包囲して陸戦隊に対する攻撃を開始したため(第二次上海事変)、戦火は上海に飛び火することになった。これを契機として、日中両国は全面戦争に転じていくことになる。
南京占領後、中国は首都を武漢、さらに重慶に移して抗戦を続けた。日本は、広大な中国大陸において戦線が拡大を続け、戦争が長期化したことから、昭和一三年四月に「国家総動員法」を公布して総力戦体制の確立を進めた。
なお、その過程において、地方行政と軍政の合理化を進める目的から、「一府県一連隊区」をスローガンとして、北海道以外の地域における連隊区の整理が進められた。昭和一六年一一月一日の陸軍管区表の改定に伴い、東京府に置かれていた麻布連隊区と本郷連隊区は廃止され、東京連隊区が新設されることになった。しかし、実際には、昭和一七年四月一日付で麻布連隊区司令部の人員の所属が東京連隊区司令部所属に「職名変更」されたのみで、人員の交代などはほとんど行われていない。すなわち、東京連隊区とは東京府全域を管轄するようになった麻布連隊区とみることができよう。一方、本郷連隊区司令部の人員は、埼玉県を管轄するために昭和一六年一一月一日に新設された浦和連隊区司令部所属に昭和一七年四月一日付をもって「職名変更」されていることから、浦和連隊区とは、本郷連隊区が埼玉県全域に管轄を変更したものとみることができよう(『密大日記』昭和一七年)。ちなみに、陸軍において徴兵および戦時における召集、現役を離れて予備役・後備役となった軍人による帝国在郷軍人会に関する事務を担当したのが連隊区司令部であり、徴兵や召集において重要な役割を果たしていたといえる。
昭和一四年三月、日本は、蔣介石との対立から重慶を脱出した知日派の汪兆銘を支援し、南京に親日政権を樹立することで蔣介石の求心力低下を図ったが、汪兆銘の南京政府は日本の傀儡政権とみなされて、かえって蔣介石に対する支持が高まる結果となった。
昭和一四年九月にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まり、ドイツが快進撃をみせたことで、日本はドイツ・イタリアとの関係を強化し、九月に日独伊三国同盟を締結した。これにより、英米の対日感情は悪化し、英米両国による蔣介石への支援が強化される一方で、アメリカが対日経済制裁に踏み切るなど、日本を取り巻く国際情勢は悪化していった。
その後、日本は蔣介石率いる重慶政府を支援するイギリスやアメリカなどによる援助物資の輸送路、いわゆる「援蔣ルート」の遮断などを目的としてフランス領インドシナへの進駐などを強行し、英米との関係は悪化の一途をたどっていき、日中戦争を終結させることができないままで、アジア・太平洋戦争に突入していくことになる。