二・二六事件後、上級部隊である第一師団が関東軍隷下となり、東京からチチハルに移駐となったことに伴い、歩兵第三連隊もチチハルに駐留し、満州において匪賊(ひぞく)の討伐などに従事していた。
以下、『聯隊歴史』第四巻に基づき、歩兵第三連隊の日中戦争における動向を略述する。日中戦争の勃発に伴い、昭和一二年(一九三七)七月二九日、第三連隊は中国戦線への応急派兵を命ぜられ、翌三〇日には軍用列車で山海関を目指して出発した。八月三日には、天津近郊の武清において第二大隊が中国軍と戦闘を行うなど、天津を拠点として偵察や戦闘に従事していた。
一二日に天津の北方の承徳への移動が命ぜられると、連隊は鉄道で移動し、さらに北京北西の張北への移動を命ぜられ、一七日以降は張北近郊で中国軍との戦闘や偵察にあたった。二〇日から二七日にかけての戦闘で張家口を占領すると、同地の防衛のために二七日以降、連隊の主力が駐屯した。
九月四日に張家口(ちょうかこう)西方の天鎮に対する攻略命令を受けて、翌五日に天鎮(てんちん)近郊で中国軍との戦闘を行った。連隊はさらに西進して陽高城(ようこうじょう)の攻略にあたり、九日に同地を占領している。なお、陽高城は高い城壁で守られていたため、砲兵との共同で城壁に突破口を開けて突入するという方法を採った。
続いて一〇日から一一日にかけては聚楽堡(じゅらくほ)近郊で戦闘を行い、さらに西進を続けて一三日には大同(だいどう)を占領した。その後、二三日まで大同に駐留したが、二四日に大同を守備する第三大隊と速射砲中隊を残して第一・第二大隊はトラックに分乗して西進し、狼峪(ろうよく)近郊で中国軍と戦闘となった。二九日には第三大隊も戦列に参加し、三〇日からは退却する中国軍に対する追撃戦を展開している。一〇月四日から八日にかけて崞県(かくけん)近郊で中国軍を撃退したあとは、再び大同に駐留するが、一四日に連隊は綏遠(すいえん)(現在の内モンゴル自治区帰綏(きすい)市、包頭市など)への移動を命ぜられ、鉄道で移動を開始する。一五日に帰化城に到着し、二〇日まで同地にあって、近隣の包頭(ほうとう)などの占領と帰化城の守備にあたった。
二一日には再び大同への移動とさらに、大同南方の岱岳鎮(だいがくちん)への移動を命ぜられる。連隊はトラックに分乗して二三日には岱岳鎮に入城し、以後、一一月一三日まで同地に駐留して警備にあたっている。
その後、満州チチハルへの帰還準備のために一四日に大同への移動を命ぜられ、一六日には大同を鉄道で出発、二一日に第一大隊が、翌二二日に第二大隊と速射砲中隊が、さらに二三日には第三大隊がチチハルに帰還して、歩兵第三連隊の中国戦線への派兵は終了した。なお、約三か月に及ぶ一連の戦闘で第三連隊は、士官一〇名、下士官・兵一五〇名の戦死者と、延べ人数で士官一五名、下士官・兵三六八名の負傷者を出している。 (門松秀樹)