一五年間で船舶入港数や貨物取扱量が倍増した東京港では、港湾機能の不十分さから、港湾整備が急務となり改築計画が立案された。関東大震災後、隅田川口改良第三期工事の計画が変更され、予算規模全体を一九〇〇万円に増額し工期も一〇年延長された。あわせて昭和五年(一九三〇)からは東京港修築工事(この東京港修築工事は工費三三〇〇万円を計画し、主に京橋区や深川区での岸壁・桟橋の整備を行った)も並行しながら進められ、これら一連の改良工事などは昭和一〇年に竣工した。
昭和一〇年四月一日に開催された隅田川口工事の竣工式にあわせて「みなと祭」が挙行された。この竣工式やみなと祭の開催をきっかけにして、昭和一〇年一月に東京港振興会が設立された。牛塚虎太郎東京市長の呼びかけに対して、海運業者、倉庫業者、回漕業者ら実業家六〇名ほどが集まり発起人会が成立している。みなと祭は東京港の繁栄を祝賀するとともに、市民に広く認知させるための啓発事業で、東京港の将来の発展の一助になることを目的としていた。
祭の予算は総額三万円で、東京港に関わる日本橋区、京橋区、芝区、深川区、品川区それぞれで祝賀祭や催物が行われた。例えば、日本橋区では日本橋祭りが同時期に開催されていた。他区でも同様の催しが行われたが、芝区では、芝浦岸壁で祝賀会を開催したほか、四月一日から三日間、約一〇〇〇発の花火を打ち上げ、また会場付近で一〇〇人のチンドン屋の行進も行われた。こうした催しに加えて、区内三か所に奉祝塔を設置し、沿道にもみなと祭の意匠を施した幔幕を張ったほか、国旗やポスターの配布などの広報活動も行っている。京橋区や深川区、品川区の活動ではそれぞれ四千円の費用であったが、芝区では竣工式の会場であったこともあり、祭の費用は一万五千円に達した。東京市にとっての隅田川口改良工事の重要性をうかがい知ることができるだろう。