昭和一二年(一九三七)四月、東京港振興会は雑誌『東京港』を発刊した。振興会会長の阪谷芳郎は創刊号において、本誌発行の意義を「船貨の出入、港湾設備の利用状況其の他施設経営に関連する諸般の調査資料を掲げて関係大方の参考に供し他面商圏の拡充を図り以て本港の進展に資せん」と述べている。東京港の諸種の調査からその実態を明らかにすることで、さらなる東京港の発展を企図していたのである。実際、『東京港』には、東京港の現状や問題点を紹介する記事のほか、各種港湾に関する組合、港湾部署による統計資料や調査結果が掲載されている(例えば、艀(はしけ)組合の調査や東京港開港の参考になる海外の港湾調査など)。ただ当初、東京港の実情調査が主であった記事も昭和一三年以降、東京港の改良を提言する論考が数多く登場することとなる。上述したように、外国貿易の取扱量は横浜港のシェアが大きく、横浜港に比して経済的に非効率な東京港は、相対的に不利であった。戦時体制に移行しようとするなか東京港の機能強化が求められていた。昭和一三年六月の『東京港』第二巻六号には、東京港の改良・改善の提言の記事が多く掲載されている。当時港湾部港務所長であった山田省三は、「東京市が本邦第一の生産都市なるに拘らず、東京港の斯くの如き外貿の不振は之等商品が概ね横浜港又は他港を経て輸出入せられつゝあるが故で其の不経済且つ不自然なること論を俟たぬ。東京市民が東京港の将来に大なる期待を抱くのは正に此の点にあるであらう」と述べている(ほかには、港湾協会長の水野錬太郎、東京市長の小橋一太らの論考が掲載されている)。内航海運において横浜港経由の取り扱いがほとんどなくなった一方で、依然、外国貿易は横浜港を利用する必要があり、開港場として指定を受けていない状況を危惧していた。
こうした議論のなかで、横浜港や川崎港などをあわせて東京湾全体を一つの貿易港とする「京浜港」構想が登場した。昭和一五年三月号には『東京港』に上坂酉三「東京港の将来性――『大京浜港』の理想を目指せ」という提言が掲載され、第二次世界大戦の勃発によって、太平洋を中心とした貿易の重要性が増すとともに、大規模な貿易港の建設が不可欠だという認識のもと、東京・横浜、川崎、鶴見など東京湾を包摂した開港を主張していた。こうした提言の背景には、実際の東京港改築・開港運動の展開が影響し、その後、戦時体制のもとでの東京港の機能強化が具体化していく。