京浜港の開港

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 一九三〇年代末期、東京市によって東京港の改築計画が俎上(そじょう)に載った。昭和一四年(一九三九)二月小橋一太東京市長は市会において東京港の開港実現へむけた運動を起こすことを決めた。小橋市長死去後、後任の頼母木(たのもぎ)桂吉市長は昭和一四年一二月に開港に関する陳情書を総理大臣の阿部信行や閣僚に提出した。また、東京市会・東京府会ともに東京港の開港促進運動に参加し、開港の実現を後押しした。ただ、こうした動きに対してこれまで貿易港の役割を担っていた横浜港関係者による反対運動が展開した。衆議院での東京・横浜港関係者によって即時開港案と開港延期案の議案がたがいに提出され、双方の意見は対立した。しかし、昭和一六年五月の閣議において、外国貿易の円滑な運営、輸送機関の節約を図る目的で、東京と横浜の両港を統合し単一に開港することが決定され、名称も京浜港と定められた。
 紆余曲折を経た結果、昭和一六年五月二十日に京浜港が誕生した。ただ、この約半年後、アメリカとの戦争に突入したため、中国大陸や南方への輸送基地として機能することとなった。芝浦埠頭から戦地へ物資が送られるとともに港湾設備も軍によって倉庫や資材置き場などに利用された。船舶が減少するなかで貨物の取扱量も減少することとなった。  (高柳友彦)