アジア・太平洋戦争においてアメリカとの戦いに劣勢となった日本では、昭和一九年(一九四四)七月のサイパン島陥落以降、B-29爆撃機による本土空襲が本格化した。戦時末期に行われた防空体制の強化に伴う建物疎開などの状況についてはほかに譲ることとして(四章三節二項参照)、本項では当該期の空襲の全体像と港区域での空襲被害の様相についてみていこう。ここでは主に昭和二四年に経済安定本部によって作成された『太平洋戦争による我国の被害総合報告書』を参考にする(この調査時点で沖縄県がアメリカの統治下にあり、統計上含まれていない。また、報告書でも言及しているが被害の数字は推計のため過少評価している問題点もある)。アジア・太平洋戦争においての人的被害(死亡・負傷・行方不明)の合計が約二五三万人、うち死亡は一八六万人。銃後人口(戦闘に関わらない人々)の被害合計が約六七万人、うち死亡が三〇万人とされている。厚生省の発表で死亡者が三一〇万人余り、そのなかで内地での戦災死者数は約五〇万人と考えられている点からも、過少な数字だということがうかがえる。この調査によると、銃後人口の被害合計約六七万人のうち、都市部での被害が約六三万人と、ほとんどが都市における被害であることが指摘されるとともに、都市部での被害要因の九九・八パーセントが空襲であった。
都道府県別の被害では東京都約二一万人(死亡約一〇万人)、広島県約一五万人(死亡約九万人)、長崎県約七万人(死亡約三万人)、大阪府、兵庫県、愛知県、神奈川県と続いている。東京、大阪、兵庫に加え、原爆被害に見舞われた広島、長崎の被害が大きかった。また、東京都のうち、現在の二三区内が九〇パーセントを占め、とくに東京大空襲において被害が集中した台東区・墨田区・江東区の被害状況が突出していた。