昭和二〇年(一九四五)五月二五日、B-29二百数十機が房総半島・駿河湾から侵入し、午後一〇時半頃から約二時間、翌二六日にかけて都心部の市街地に対して焼夷弾による攻撃を行った。爆弾一五一個、焼夷弾大型約一八一六個・小型約一四万六七五〇個投下された(『東京大空襲・戦災誌』三)。中野区、四谷区、牛込区、麴町区、赤坂区、世田谷区、本郷区、渋谷区などの大部分が焼失した。麻布区、赤坂区は区内全域が焼失地域となった。この空襲で丸ノ内にあった海軍省や運輸省、麴町にあった内務大臣官邸、外務省など官公庁の施設のほか、品川の中島電機製作所など重要工場群も被害を受けた。港区域では、三田の池貝田町工場、沖電気、横川橋梁工場、東京電気、福井製作所の工場が被災した。また、慶應義塾大学や芝浦工業大学などの各種学校も被害を受けている。麻布区では戦前戸数の一万九六一一戸のうち、焼失戸数は七六五四戸、赤坂区でも一万一八七八戸中、九二二九戸が焼失している。加えて、赤坂区では人的被害も著しく多く、死者五五一人、重軽傷者一一〇〇人にのぼった。芝区でも死者一二〇人、麻布区でも六六人でこの山の手空襲による死者数は三五九六人であった(『東京大空襲・戦災誌』三)。
空襲による港区域の被害状況を表したものが表4-1-3-2である。表4-1-3-1と同様に『決定版東京空襲写真集』から各区の被災状況を網羅したものから作成している。各種調査などによって被害の実数が異なるものの、港区域では約一〇か月に及ぶ空襲によって、死者は一〇〇〇人弱、重軽傷者は約二〇〇〇人に及び、罹災者は三区合計で一〇から一二万人に及んだことが確認できる。 (高柳友彦)
表4-1-3-2 空襲による港区域の死者・負傷者・罹災者数(単位:人)
東京大空襲・戦災資料センター編『決定版東京空襲写真集』(勉誠出版、2015)をもとに作成