4-1 コラム 桑田記念児童遊園の由来

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 赤坂九丁目にある港区立桑田記念児童遊園には、昭和一一年(一九三六)に赤坂区が建てた石碑が建っており、碑には、桑田家の当主権平(ごんぺい)は先代衡平(こうへい)の三三回忌に当たり一九三〇余坪の土地と邸宅すべてを赤坂区に寄付したという内容が記されている。これがこの児童遊園が「桑田記念」と冠している理由である。当時の赤坂区はこの寄付を受けて、邸宅の一部に図書室を併設し、桑田記念館として一般の用に供した。邸宅は戦災で焼失、戦後この土地は港区に承継され、平成末には児童遊園のほかに港区立中之町幼稚園と、港区が地主の四〇区画余りの貸付地があった。
 桑田衡平(一八三六~一九〇五)は、天保七年(一八三六)、現在の埼玉県日高市の農家に生まれ、母の教えを肝に銘じて医学を志し、苦学の末、維新後三三歳で開成学校(東京大学の前身の一つ)の雇医となり、職務の傍ら多くの医学書を翻訳、出版した人である。癌、狭心症、糖尿病、胃潰瘍、痛風などの病名は衡平が翻訳したという。病後にすべての仕事を辞めて、余生を貧しい人々の教育環境を整えることに没頭した。貧困のなか、苦学した生い立ちを忘れなかったのである。明治二八年(一八九五)に赤坂区議会議員となり、翌年議長を務めている。
 権平は衡平の次男として生まれ、明治一七年、満一三歳のとき叔父桑田知明の渡米に同行して太平洋を渡った。知明は増上寺方丈(現在の港区立御成門中学校敷地付近)におかれた開拓使仮学校(現在の北海道大学の前身)で、明治政府が招聘した地質学の専門家ベンジャミン・スミス・ライマンに教えを受け、ライマンの三年に及ぶ北海道全島調査に助手として参加した。そして帰国したライマンが、知明を米国に呼び寄せたのである。権平は米国の高校を卒業、大学では機械工学を学び、九年間の留学生活を終えて帰国、それまで輸入に頼っていた紡績機械の国産化を成し遂げた。
 『桑田権平「自傳」』にはこの土地について、次のように記されている。
 初めは一万坪余りもありましたが、我々兄弟の留学費支出のため、大半は売却し、当時残りは僅かに二千坪余りとなっていました。兄量平は性磊落の方で父よりこの財産を相続するや、前以って重積した借財の整理にこれを売却しました。買い取った人は某銀行の頭取でこれを高価に赤坂区へ提供せんとしたところ赤坂区民は奮起し、「桑田先生の遺産を暴利を以って処分するとは怪しからぬ」といって区民会を起して同氏に迫りました。同氏は思いがけぬことに当惑して一切を投げ出し、この土地の件を区長に一任してしまいました。区長はまたその処置に困り、区会を開いて協議した結果、もし桑田家の親戚でこれを引取る者があれば一切を原価で譲るべく決議されました。そして私に区会へ出席を求められ、これを引受けるか否やを問われましたので直ちに応ずることとしました。かかる成行の歴史をもった土地でありましたからこの時もとの区へ還元する積りで寄付することを思い立ったのであります。(中略)その返済を一日も速かに遂げんとして川崎造船所でもらった賞与金は全部それに当て、家内も二ケ年間一着の衣類の新調もせず、家庭の経費を最低限度に切り下げて借金の内入れに打込みました。幸い(中略)借金の残部整理が出来ました。
 つまりこの土地は、桑田家が有り余る財産の一部を赤坂区に寄付したというのではなく、借財返却のために手放した土地であったが赤坂区の要望を受け、権平が苦労して買い戻した上で、区に改めて寄付したのである。
 この土地の一部にあった細分化された貸付地は、防災上および居住環境上改善の必要があるとして、この地区全体に市街地再開発事業が計画され、平成三〇年(二〇一八)二月、地上四四階の超高層ビルが竣工した。区は地区内に所有していた土地などの資産と交換に、建物の二階部分に床の権利を得て高齢者福祉施設と子育て支援施設を開設したほか、この土地に建っていた中之町幼稚園などに対する転出補償として、三九億円余りを受領した。土地建物の寄付から八〇余年を経て、再開発により図らずも桑田家の厚意が顕在化したのである。
 絵本『桑田衡平の物語』を刊行した「桑田衡平を顕彰する会」会長入江武男は、「衡平が住んでいた邸の土地に建った高層マンションに住む人が桑田衡平のことを知ってくれるといいですね」と締めくくっている。  (澤藤盛光)