組織構成からみた戦時期の区行政

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 この時期の「区」は、昭和一八年(一九四三)六月の東京都制施行までは、先の三章二節と同様に、区の財産および営造物の管理と法律命令により区に属する事務を行った。都制施行に基づく変化はのちに詳しく検討することとして、この項ではまず、都制施行以前の、主に昭和一二年から昭和一七年の時期の行政の内実を、三章二節一項と同様にいくつかの角度から検討したい。
 まず当該期の区役所の歳出をみてみよう。表4-2-1-1は、日中戦争開始以前の昭和一〇年から昭和一五年の赤坂区役所の歳出予算費目をまとめた表である。この表からは、日中戦争開始以降も歳出の過半が、教育費であることがわかる。教育費の大部分を占めるのは、区の財産である小学校の運営費である。
 次に、区役所の構成を検討しよう。区役所は、先にも述べたとおり、その構成や事務分掌は東京市の訓令である「区役所処務規程」に基づいて、いずれの区役所も共通であった。表4-2-1-2は、日中戦争開始直前の昭和一一年段階の東京市の区役所の構成および赤坂区役所の職員配置である。まず構成については、先に三章二節一項でみた大正一五年(昭和元・一九二六)の庶務、戸籍、衛生道路、税務、会計の五つの掛にほぼ対応する庶務課、戸籍兵事課、保健土木課、税務課、会計課の五課に加え、社会課が設置されている点が注目される。社会課は、昭和八年(一九三三)に設置された。次に職員配置を赤坂区役所に即してみると、庶務課と税務課の職員が全体のおよそ六割を占める点も、大正一五年とほぼ同様であることがわかる。
 日中戦争開始後にはこの構成に変化が生じる。まず昭和一二年(一九三七)一一月の区役所処務規程の改正により、庶務課に団体係が設置された。団体係とは、軍事援護の連絡、区民の精神運動、防空に関する事項など、日中戦争に伴い戦争を地域において支える業務を担当した。さらに昭和一三年五月の区役所処務規程の改正では、社会課の保護係、福利係が、事業係、軍事援護係に改編された。軍事援護係は、軍事扶助、帰還軍人及傷痍軍人の就職斡旋その他生業援助に関する事項、軍事援護団体に関する事項などを担当し、戦時下の要請に対応する構成へと変化した。
 表4-2-1-3は、その後昭和一六年(昭和一五年度末)段階の東京市の区役所の構成および赤坂区役所の職員配置である。この時期には、庶務課から教育を担当する部署が教育課、勧業や統計を担当する部署が経済課として独立し、庶務課には総動員係が設けられた。その後昭和一六年四月一日(昭和一六年度)には、同じく庶務課に防衛係も新設された。また社会課は軍事援護係を含む三係体制の厚生課へと発展した。この構成のもとでの職員配置を赤坂区役所に即してみると、まず庶務課から独立した教育課、経済課がそれぞれ約一三パーセント、八パーセントと合わせて二〇パーセント強の職員を擁(よう)し、さらにこの二つの課に人員を割いた庶務課もなお二〇パーセント弱の職員を有する点が目につく。表4-2-1-2にみたように、日中戦争以前の庶務課の職員が全職員の約三〇パーセントであったことに鑑(かんが)みれば、教育課と経済課に職員を割いた後の庶務課の職員比率がなお二〇パーセント程度を占めている点は、戦争を地域において支える庶務課の業務が肥大していることを反映していると考えられる。同様の傾向は、社会課時代の二係体制から軍事援護係を含む三係体制となった厚生課でも、職員比率五・五パーセントから一三・九パーセントとして見出すことができる。以上のような区役所の構成の変化からは、戦時下における戦争を支える業務が区行政に影響を及ぼしていることが確認できる。
 

表4-2-1-1 昭和10年(1935)から昭和15年(1940)の赤坂区役所の歳出予算(単位:円)

東京府編『東京府市町村勢要覧』(1936年1月・12月、1938~1941)をもとに作成

表4-2-1-2 日中戦争開始時の東京市の区役所の構成と赤坂区役所の職員配置

東京市区役所処務規程(1937年6月7日東京市訓令第五十八号区役所処務規程改正)、赤坂区編『東京市赤坂区勢要覧 昭和十二年版』(1937)をもとに作成

表4-2-1-3 昭和16年(1941)3月段階の東京市の区役所の構成と赤坂区役所の職員配置

昭和16年(1941)3月段階の区役所の構成については、東京市区役所処務規程(1940年10月5日東京市訓令甲第121号東京市区役所処務規程改正)参照。赤坂区役所の職員配置については、『赤坂区史』(1941)321~322頁参照。