東京都の成立と区制

186 ~ 188 / 405ページ
 さて、先にみた表4-2-1-4によれば、昭和一四年(一九三九)に東京市長が麻布区を視察した際の懇談会では、区議から提起された話題に、「都制案における区会の権限強化」という内容がみられた。東京都制については、大都市東京の自治権拡充をめぐる動きと連動して一九二〇年代以来たびたび議論され、都の区域(東京市の区域か東京府の区域かなど)、都長の選出方法(官選か否かなど)、区の権限などが論点となっていた。昭和八年には政府が第六四議会に東京都制案を提出した。この都制案は、都の区域を東京府の範囲とし、官選の東京都長官を置く一方で、三五区の区長は都長官の推薦により区会が任命し、課税権や起債権を付与するという内容を有したが、強い反対の声をふまえ審議未了となった。その後昭和一三年にも政府は東京都制案要綱を発表したが、都の区域を東京府の範囲とし、官選の都長官を置くなどの内容を有したこの要綱にも東京市会などからの強い反発が寄せられ、政府は法案の議会提出を断念した。なお以上の都制案には、東京市会側からはその権限を縮小するものとして強い批判が寄せられたが、区にとっては自治権拡張につながる要素を含んだことから、区側では賛成の声もみられた。先にみた表4-2-1-4の麻布区における話題は、こうした文脈のなかで提起されたものと考えられる。
 この東京都制をめぐる動向は、昭和一六年一二月のアジア・太平洋戦争開始に伴う戦局の緊迫のなかで新たな段階を迎えることとなる。東条英機内閣は昭和一七年一一月、都の区域を東京府の範囲とし官選の都長を置くことなどを掲げた「東京都制案要綱」を閣議決定し、翌一八年二月に帝国議会に法案を提出した。法案は、戦時下の国家的見地から帝都の行政を強力に推進する、という目的が強調され、同年二月に衆議院で、三月に貴族院で一部修正の上、可決成立した。そして昭和一八年七月一日、東京都制が施行された。この東京都制では、区は都の下級行政組織とされ、財産および営造物に関する事務ならびに都の条例により区に属するとされた事務を処理するものとされた。昭和八年の都制案にみられた課税権などは都民の負担差の発生などを根拠に求められず、区の自治権が拡張されることはなかった。
 以上のように東京都は昭和一八年七月に成立したが、同年四月には連合艦隊司令長官山本五十六が戦死し、五月にはアッツ島守備隊が「玉砕」するなど、戦局は悪化の一途を辿(たど)っていた。それではこの時期の行政的課題は如何(いか)なるものであったのだろうか。表4-2-1-5は、昭和一九年二月段階の都内各区の経済、教育、厚生、防空に関する重要事項および懸案をまとめた資料から芝、麻布、赤坂各区に関する記述をまとめたものである。麻布区の記述が「ナシ」である点は残念であるが、芝区、赤坂区の記述では、可能性が高まる空襲時の配給や防空体制の整備などが課題となっていることが確認できる。  (中村 元)
 

表4-2-1-5 東京都制施行直後の各区における経済、教育、厚生、防空に関する重要事項および懸案

「昭和十九年二月二十一日現在 区勢要覧」(東京都公文書館編『都史資料集成Ⅱ 東京都制の成立』東京都、2013年所収)をもとに作成