この東京都制をめぐる動向は、昭和一六年一二月のアジア・太平洋戦争開始に伴う戦局の緊迫のなかで新たな段階を迎えることとなる。東条英機内閣は昭和一七年一一月、都の区域を東京府の範囲とし官選の都長を置くことなどを掲げた「東京都制案要綱」を閣議決定し、翌一八年二月に帝国議会に法案を提出した。法案は、戦時下の国家的見地から帝都の行政を強力に推進する、という目的が強調され、同年二月に衆議院で、三月に貴族院で一部修正の上、可決成立した。そして昭和一八年七月一日、東京都制が施行された。この東京都制では、区は都の下級行政組織とされ、財産および営造物に関する事務ならびに都の条例により区に属するとされた事務を処理するものとされた。昭和八年の都制案にみられた課税権などは都民の負担差の発生などを根拠に求められず、区の自治権が拡張されることはなかった。
以上のように東京都は昭和一八年七月に成立したが、同年四月には連合艦隊司令長官山本五十六が戦死し、五月にはアッツ島守備隊が「玉砕」するなど、戦局は悪化の一途を辿(たど)っていた。それではこの時期の行政的課題は如何(いか)なるものであったのだろうか。表4-2-1-5は、昭和一九年二月段階の都内各区の経済、教育、厚生、防空に関する重要事項および懸案をまとめた資料から芝、麻布、赤坂各区に関する記述をまとめたものである。麻布区の記述が「ナシ」である点は残念であるが、芝区、赤坂区の記述では、可能性が高まる空襲時の配給や防空体制の整備などが課題となっていることが確認できる。 (中村 元)
表4-2-1-5 東京都制施行直後の各区における経済、教育、厚生、防空に関する重要事項および懸案
「昭和十九年二月二十一日現在 区勢要覧」(東京都公文書館編『都史資料集成Ⅱ 東京都制の成立』東京都、2013年所収)をもとに作成