戦時下の翼賛選挙と地域政治

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 以上にみた昭和一二年(一九三七)四月の第二〇回衆議院議員総選挙で選出された衆議院議員の任期満了は昭和一六年四月となるが、衆議院議員選挙法改正が検討されるなかで、同年二月に議員任期を一年延長する法律が成立した。この延期期間中の同年一〇月には東条英機内閣が成立し、さらに一二月には東条内閣がアメリカ・イギリスと開戦し、いわゆるアジア・太平洋戦争が始まった。東条内閣は、この戦争開始と緒戦の優勢を追い風に議会における翼賛体制構築をめざし、政府が人選した各界代表者による翼賛政治体制協議会(翼協)による候補者推薦制での選挙を実施することとなった。
 昭和一七年四月三〇日に実施されたこの候補者推薦制によるいわゆる翼賛選挙に際しては、内務省―警察が詳細な各地の情勢調査を行っていたことが知られる。以下では、『資料日本現代史 4』に収録されたこれらの情勢調査に基づいて翼賛選挙期の港区域の状況を確認する(吉見・横関編 一九八一)。まず警視庁が選挙に先立って同年二月に芝区、麻布区、赤坂区を含む東京第一区について行った調査では、同区の特徴として、「選挙ノ現実ニ直面スル時ハ自然現象トシテ既成陣営ニ相当ノ投票ヲ見ルノ結果ヲ生ズルハ必然ト認メラル」と、既成政党陣営の優位が見込まれていた。
 さらに警視庁が、四月の選挙戦の過程でも複数回にわたって行った東京第一区の数回の情勢調査に基づく得票見込みと、実際の結果をまとめたものが表4-2-2-3である。最初の四月一七日の時点では、推薦候補のなかでは既成政党民政党出身でその系列の市議、区議などの支援を受ける橋本、高橋、原の三候補と、新人の牛塚の優位が見込まれていた。牛塚については、「前代議士本田義成ノ地盤ノ過半並ニ渡辺銕蔵、道家斉一郎ノ地盤中知識階級方面ノ地盤ヲ獲得シ」として、政友会系の前代議士本田の地盤および前回の総選挙で民政系の候補渡辺や中立の道家を支持した知識階級の支持を得ていることが指摘されていた。また第四位の得票を予想された旧社会大衆党の河野については、「確固タル地盤ナキ為メニ文書、言論戦ニ重キヲ置キ大体散票獲得ニアルモ知識階級、下層階級又ハ早大、慶大出身者其ノ他学生方面ニ相当後援者アルモノヽ如ク」と、「散票」(浮動票)と知識階級、下層階級の支持が見込まれていた。
 次の四月二二日の情勢調査では、推薦組のなかでは高橋候補の得票数が減ることが見込まれる一方、非推薦の大神田候補の得票数増加が見込まれていた。この点については、「従来劣勢ナリシ大神田候補ハ町田忠治、桜内幸雄外知名士数名ノ連名推薦状発送シタルニヨリ極メテ有利ニ展開シ」「今後大神田候補ノ作戦如何ニヨリテハ当選圏内ニ在ル原候補ヲモ凌駕セントスル形勢ニアリ」と、大神田候補が旧民政党系の有力者の推薦を背景に支持を広げていることが指摘されている。さらに投票二日前の四月二八日の調査では、原が当選圏内の得票数五位以内から脱落していた。また推薦候補のなかでは、従来最も少ない得票を見込まれていた福家が原との差を縮めている。この点に関連しては、麻布区では区会副議長樋渡正人が「原候補ヲ支持スベキノ処今回大神田候補ヲ支持スルニ至リ」と報じられるなど原候補の支持基盤が揺らぐ一方で、福家候補は「有権者ニ対スル第三者ノ個人推薦状発送ト各演説会場ニ於ケル聴集(ママ)ノ感動等ヨリ見テ、全般ニ亘リ有利ニ展開シツヽアリ」との観測がなされていた。
 四月三〇日の実際の投票結果では、推薦候補者中から牛塚、福家、橋本の三名と、非推薦の河野、大神田が勝利した。このうち非推薦の河野については、ほぼ警視庁の当初の見込みどおりの得票であり、先にみたこの地区の浮動票や知識階級、下層階級の支持を固めたものと考えられる。同じく非推薦の大神田についても、当初の見込みよりも微増ではあるものの見込みと大きく異なるものではなく、翼賛選挙に肯定的でない旧既成政党系の支持を得たものと考えられる。他方で推薦候補五名については、中立の新人である牛塚、福家の二名が見込みよりも多くの票を得る一方、旧民政党系の橋本が辛勝、原、高橋が落選した点が注目される。この点は、この地域の翼賛選挙においては旧既成政党の集票構造が十分に機能せず、翼賛選挙に呼応した人々には、よりその理念に相応しい新人が選好されたことを示すと考えられる。なおこの昭和一七年の総選挙では、東京府のうち新中間層などが多く居住した新市域の世田谷区・目黒区を含む東京第五区では、警視庁の見込みを二倍以上上回るなど、予測と大きく異なる得票があったことが知られている(源川 二〇〇一)。しかし芝区、麻布区、赤坂区を含む東京第一区ではそれほど劇的な変化は生じず、地域の人々はおおよそ警視庁が概況を把握している範囲での政治選択を行っていたといえよう。  (中村 元)
 

表4-2-2-3 昭和17年(1942)4月30日執行衆議院議員総選挙の得票見込みと実際の得票

注1)4月17日付、22日付の情勢報告では、有権者の35%が棄権し投票総数は76,886人、同28日付の情勢報告では同じく35%の棄権で77,293人となることが想定されている。各報告ごとの得票率は、この投票総数見込みをもとに算定した。
注2)昭和17年総選挙の得票数は次のとおり。得票総数94,718、芝区28,804、麻布区15,109、赤坂区8,655(票)。

「衆議院議員総選挙選挙運動情勢報告(4月17日現在)」表町警察署、「衆議院議員総選挙選挙運動情勢報告(4月22日現在)」警視庁、「衆議院議員総選挙選挙運動情勢報告(4月28日正午現在)」表町警察署(以上、吉見義明・横関至編『資料日本現代史』4、翼賛選挙1〈大月書店、1981〉所収)および『東京朝日新聞』昭和17年4月21日朝刊(朝日新聞記事データベースから)、『衆議院議員総選挙一覧 第21回』(衆議院事務局、1943)をもとに作成