東京市の町会整備とその影響

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 次に戦時期の港区域における地域住民組織である町内会(町会)について検討を行う。まず全体的な動向を知るために、一九二〇年代から四〇年代に至る時期の町会数の変化をまとめたのが表4-2-3-1である。この表をみると、町会数は、大正一五年(昭和元・一九二六)から昭和八年(一九三三)にかけて増加し、昭和八年から一四年、さらに一七年にかけては減少していることがわかる。前者の二〇年代から三〇年代にかけての増加については、三章二節三項でみたように、関東大震災の影響などが指摘されている。それでは、本節の対象となる戦時期に町会の数が減少したのは何故なのか。まずこの点から検討したい。
 この時期の町会の変遷については、東京市が刊行した『東京市の町会』(東京市 一九四〇)が詳しい。以下では同書によりつつみていきたい。東京市では、昭和四年の「町会ニ関スル制度調査委員」の設置以降、町会の整備が課題とされた。昭和一一年には町会に関する調査費が計上され、翌一二年にはその予算が倍増された。しかし、「愈々調査期を通過して実施期に入らんとした時支那事変が勃発し、俄然町会は従来の平和的公共活動から巨歩を進め」ることになり、戦時に伴い町会に新たな活動も期待されるようになる。こうしたなかで昭和一三年四月に、東京市告示として「東京市町会規準」が、五月に「東京市町会規約準則」が相次いで発表された。この「規準」の第一条では、町会は「隣保団結シ旧来ノ相扶連帯ノ醇風ニ則リ自治ニ協力シ公益ノ増進ニ寄与シ市民生活ノ充実向上ヲ図ルヲ以テ目的トスル地域団体」と明確に定義された。また第四条では、「町会ノ区域ハ特別ノ事情ナキ限リ町(丁目)ヲ以テ定ムルモノトス」とされ、これにより地理的区分に即した町会の再編成がなされた(黒川 二〇〇二)。また「規準」の第一〇条では、「町会ハ隣保団結ヲ強固ニシ交隣協力ノ実ヲ挙グル為連軒数戸ヲ単位トシ細分組織ヲ設クルモノトス」として、町会内部に「細分組織」を設置することが規定された。
 さらにその後、日中戦争が長期化するなかで、昭和一五年九月には内務省訓令第一七号「部落会町内会等整備要領」が発せられ、全国の市町村で部落会・町内会の整備がなされるとともに、部落会・町内会は、地域住民組織であると同時に「市町村ノ補助的下部組織」でもあると規定された。また上記の訓令とともに出された内務次官通牒「部落会町内会等ノ整備指導ニ関スル件依命通牒」では、部落会町内会は、「産業、経済、教化、警防、保健衛生、社会施設其ノ他時局関係事務等住民ノ共同生活ニ関連スル各般ノ事項ニ亘ルモノ」であるため、部落会町内会の組織に「部制」を設けることや、部落会町内会およびその下部の隣保班に対し「時局下ニ於ケル必要物資ノ増産、供出、配給及消費ノ規正等統制経済ノ運用ニ付必要ナル機能ヲ発揮セシムルコト」が求められるに至り、町内会やその下部の隣保班(隣組)の戦時下における行政補助組織としての性格がより明確化された。
 以上のように、東京市では戦争以前から課題となっていた町会整備が、日中戦争開始後の町会への新たな活動の期待と連動して実施された。とくに昭和一三年四月、東京市が町(丁目)という地理的区分に即した再編に着手し、さらに昭和一五年に内務省が部落会・町内会の整備に乗り出したことが、本項冒頭で掲げた町会数の減少に帰結したと考えられる。とくに芝区において町会数の大幅な減少がみられることは、三章二節三項でみたように、同区では関東大震災以前から存在した衛生組合や氏子団体などに起源をもつ町会が多く存在したことに鑑(かんが)みれば、こうした様々な起源をもつ地域住民組織が当該期に地理的区分に即して再編されたものと考えられる。なおその後の町内会は、昭和一八年三月の市制改正により地方自治制度のなかに法的に位置付けられることとなる(白木澤 二〇一八)。
 

表4-2-3-1 港区域の町会数・隣組数と町会会員数

※昭和8年の会員数は、調査に回答した町会の会員数(芝区136、麻布区58、赤坂区42)。
『東京市町内会に関する調査』(東京市政調査会、1927)、東京市編『東京市町内会の調査』(1934)、『東京市の町会』(東京市、1940)、『五大都市町内会に関する調査』(東京市政調査会、1944)をもとに作成