まず戦時期の松坂町会の性格を、その規約から検討したい。三章二節三項でみたように、松坂町会では昭和二年(一九二七)に規約が改正され、以後しばらくこの規約は大きな変更なく継承され、それを基礎に活動が行われていた。この規約をめぐる状況は、昭和一二年の日中戦争開始後も基本的には持続していくが、昭和一三年四月改正の規約では、全町を四部に分け、各部で会員一〇名以上から組を編成しその組内より組長を選出し得るという規定が設けられた。しかしこの規定は翌一四年の規約ではみられなくなり、昭和一六年の規約になると、全町を二一組に区画し各組において組長および群長を選出する、との規定が新たにみられるようになる。以上の「組」に関する規程の変化は、先にみた昭和一三年の「東京市町会規約準則」第一〇条での町会における「連軒数戸ヲ単位」とする「細分組織」の設定をめぐる三田松坂町会の模索のあらわれと考えられよう。
その後昭和一八年には、規約の大幅な変更がみられた。まず第二条で、「本町会ノ組織及運営ニ関シテハ東京市町会規程其ノ他別ニ定ムルモノヲ除クノ外本規約ノ定ムル所ニ依ル」との文言があらわれる。そして続く第三条では、「本町会ハ隣保団結シ万民翼賛ノ本旨及旧来ノ相扶連帯ノ醇風ニ則リ地方共同ノ任務ヲ遂行シ市民生活ノ刷新充実ヲ図ルト共ニ国策ノ徹底ヲ期スルヲ以テ目的トス」などの目的が設定され、さらに第七条では、「本町会ハ第三条ノ目的達成ノ為概ネ左ノ事業行フ(ママ)」として、「一 敬神崇祖及祭祀ニ関スルコト、二 隣保団結及相互扶助ニ関スルコト、三 国策及自治行政ヘノ協力実践ニ関スルコト、四 経済生活ノ安定及貯蓄強化ニ関スルコト、五 軍事援護ノ強化ニ関スルコト、六 防衛、警防及衛生ニ関スルコト、七 敬老、慶弔及奨学ニ関スルコト、八 健民厚生ニ関スルコト、九 官公署トノ連絡ニ関スルコト、十 各種団体ヘノ協力援助ニ関スルコト、十一 其ノ他共同福利ノ増進ニ関スルコト」という一一の事業が設定された。この第三条や第七条の内容は、第二条で触れられていた「東京市町会規程」にみられる文言そのままである。「東京市町会規程」は、昭和一八年四月に東京市告示として出され、その第一条では「本市ノ町会及隣組ノ組織及運営ニ関シテハ別ニ定ムルモノヲ除クノ外本規程ノ定ムル所ニ依ル」と規定されていた。つまり昭和一八年の三田松坂町会の大幅な規約変更は、同年に東京市が管下の町会および隣組に一律に適用した規定に基づく変更であった。先にみたように、昭和一三年には、東京市が「東京市町会規準」などを示し、昭和一五年には内務省訓令「部落会町内会等整備要領」が発せられたが、三田松坂町会では町会内の「組」編成などは検討されつつも、規約の骨格部分は昭和二年以来の内容が維持されていた。しかし昭和一八年に至り、その規約は、東京市が管下の町会および隣組に一律に適用した規定へと大幅に変更された。すなわち大正二年(一九一三)に三田松坂町内に創立された、祭礼、兵士送迎、町内親睦などの事業を行う愛友会に端を発し、東京市当局などの町会整備の動向に対応しつつも独自の組織と運営を持続してきた地域住民組織である三田松坂町会は、規約の上では昭和一八年に至り、東京市の行政補助団体へと明確に転換したといえよう。
では以上の規約の推移をふまえた上で、戦時期の町会の事業内容をみてみよう。表4-2-3-2は、日中戦争開戦前の昭和一一年(一九三六)からアジア・太平洋戦争開戦後の昭和一七年までの「三田松坂町会規約」の事業報告を整理したものである。なお現段階では、これ以降の時期の状況がうかがえる事業報告は確認されていない。まず昭和一一年度と昭和一二年度を比較すると、日中戦争の開始に伴い従来の事業に加え、出征者の大幅な増加とそれに関わる出征兵士歓送及戦傷病兵・遺骨出迎などの事業が始まっていることが確認される。その後昭和一四年度には、上記の出征兵士歓送及戦傷病兵・遺骨出迎に加え、慰問並合同慰霊祭参列、慰問文・慰問袋発送など銃後事業が増加しているほか、様々な公的調査に関する事業が増加している点が目につく。この点は、先にみた昭和一三年の「東京市町会規準」で町会の役割として「自治ニ協力シ公益ノ増進ニ寄与」することが明確に規定されたことと関連すると考えられる。翌一五年度には、砂糖、マッチ、木炭などの配給に関する事業が付加されている。日中戦争の長期化に伴い物資欠乏のみえ始めるなか、昭和一五年六月から六大都市で砂糖・マッチの切符制による配給が開始された。上記の事業は、この配給制度の開始に伴うものと考えられる。翌一六年度は、同年一二月八日の対米英開戦によって始まったアジア・太平洋戦争(当時の呼称では「大東亜戦争」)に伴って、空襲に対応する準備に関わる動向や、昭和一七年二月の「シンガポール陥落」に関わる祝賀式参列行進などの事業が付加されていることがわかる。またこの年から「ラヂオ体操」が実施されていることも目につく。一九二〇年代末に放送が開始されたラジオ体操は、日中戦争以降「銃後国民ノ体位向上」に資する心身鍛錬手段として行政により推奨されていた。
以上のように三田松坂町会では、規約上大幅な変化がみられない昭和一八年以前においても、日中戦争開始以後、戦争に関係する事業が増加していたことがわかる。地域の人々は、地域の神社祭礼参拝や衛生活動など以前からの日常的な事業を担いつつも、戦時下で次第に戦争を下支えする体制に組み込まれていったといえよう。 (中村 元)
表4-2-3-2 三田松坂町会の事業内容
『芝三田松坂町会規約』(1937、1938)、『芝区三田松坂町会規約』(1939~1943)の「事業報告」をもとに作成(18年度の内容は17年度と同様)