銃後を担った町会のすがた

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 本区史の編纂に伴って詳細が調査され、通史編近世や近代の明治維新直後の行政に関する章にも取り上げた麻布本村町会資料にここで着目してみたい。資料群の全容を見ると、最古のものは元治二年(一八六五)の幕末期から始まり、明治維新後、一時行政の布達を町内に伝達するなどの行政の一端を担う時期を経て、長い空白期間がある。そして大正末期に再び資料が始まっている。この間に継続的な活動があったのかどうかは定かではない。関東大震災の頃を境として地域社会を守る自警団などの活動の活発化が指摘されるが、それとほぼ符合して大正一五年度(一九二六)から活動の記録が再び現れ、それが昭和二一年度(一九四六)で途絶えている。
 記録再開後の資料は町会の会計簿で、欠が多いものの八冊が残されている。残存初期の大正一五年〜昭和七年度頃には会議費や衛生費、街路照明費、慶弔費、兵事費などの項目が見られる。しかし昭和一四年度頃からは、国家総動員体制および日中戦争の影響が明確に現れている。兵事費が急増し、「某応召入送自働車代」「応召看護婦某餞別金・同祈願料」「某応召出征餞別金・同祈願料・同東京駅迄見送自働車代」(昭和一四年四月)といった出征者の支援のための支出が頻繁に記録されるようになり、その数は増加の一途をたどるのである。
 さらに臨時費として「慰問袋募集ニ出動役員弁当料・同出動役員茶菓料」「第二回興亜奉公日神宮参拝費」「靖国神社参拝電車代」「出征家族ニ木炭運搬費」「帰還部隊出迎役員電車弁当費」(昭和一四年度の例)といった項目も盛んに目につき、戦時儀礼への対応、また出征者やその家族の支援が多様化していく。
 昭和一七年度頃からは慶弔費が急増し、通常の町内の婚姻や葬儀に加えて「某戦死英霊祭壇一式・霊前供楠玉供菓子外ニ徽章」「某遺骨帰還祭壇一式」「某英霊祭壇一式・同供生花・同現〔原〕隊迄出迎車代」「某英霊列着祭壇一式・同生花料並休憩所礼」「戦死者遺族訪問並ニ墓参花線香料」(昭和一七年度)などが見られるようになる。
 さらに昭和一四年度以降には「防空費」が確認できる。「防空」は空襲から都市を守ることであり、昭和一二年「防空法」によって国民の法的義務と位置付けられた。それを地域社会のなかで実践するために町会は大きな役割を果たしていた。「第二次防空訓練通知書配付」「家庭防火群訓練用発煙筒」「家庭防火群長腕章六一、タスキ九〇〇本」「団長用懐中電灯外 ポスター書代」(昭和一四年七月)といったように防空意識の日常的な啓発や訓練が繰り返され、意識の浸透に町会が果たしていた役割をはっきりと跡付けることができる。