昭和一八年度(一九四三)以降には「警報発令出動役員茶菓代」「手押ポンプ操縦訓練指導員弁当代」「訓練用焼夷筒代」「公共待避所設置出動者礼金」といったように、防空費が米軍の空襲の具体的危険への対応となり、緊迫感が増している様子がわかる。
昭和一九年四月の臨時費には腸チフスの予防注射などに混じって血液型検査の医師への謝礼金が見える。これは緊急時のために氏名とともに血液型を表記した名札を身につけたことと関係するものであろう。
さらに昭和二〇年一月にかけて「家庭品修理隊へ礼金」「戦時農園費種子代」「指導員戦事死亡傷害保険料」「巡回修理隊員及工作場礼」などがみえ、物資や食糧の不足、空襲の切迫感など、町会を取り巻いていた時局の変化が如実に反映されている。
すでに昭和一三年「綿糸配給統制規則」による綿製品統制を最初として、同一五年六月には砂糖・マッチの切符配給制が開始、以後米穀、衣料の切符配給制と続き、物資不足を補うため、空地を農園として利用したり、日用品を修理しながら工夫して使うことが奨励されていたことがわかる。
金属の供出は昭和一六年「金属類回収令」に基づいて行われ、家庭内の金属製品の回収の担い手となったのも隣組や婦人会などであった。
昭和二〇年は断片的にしか記載されておらず、おそらく連日の空襲で地域社会の日常も混乱し、十分な記録の管理や出納の余裕もなかったのであろう。そして昭和二一年の記録もまばらで、同二二年四月二五日付で「町会廃止ニ付キ隣組長ニ記念品トシテ市電回数券二冊宛一〇六冊代」で断絶している。行政の末端を担う役割はこのようにして終焉を迎えた。
右のとおり、いわゆる「銃後」を支える存在としての町会の役割は極めて大きなものであった。
なお、麻布山の地下に日本軍によって大型の地下壕が掘削されていたことが伝わっている。設営部隊は、学童疎開により空いていた南山小学校に駐屯したとされている。その規模は不明、現在では埋め戻されているが、本土決戦に備えたものと考えられており、戦争末期の区内の一側面として、今後さらなる研究が待たれる。 (都倉武之)