建物疎開の開始

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 建物疎開は、昭和一七年(一九四二)六月三日、防空法に基づき、防空上の観点から工場などの分散を図るため、一〇府県に建築禁止・制限の区域が指定されたことに始まる。次いで一八年三月には、防空上空地を設ける必要から建築を禁止・制限する地区が指定された。防空空地と空地帯の二種があり、港区域に関連したのは前者であったが、これは密集市街地の九〇〇坪以上の空地(農園、運動場など)を当面そのままとすることを定めたもので、芝区、麻布区、赤坂区で、あわせて一万八〇〇〇坪が対象として指定された。
 しかし、空襲被害の可能性が強く認識されるようになって、この程度の対応では不十分と理解されるようになり、九月には官庁舎の疎開方針が出され、一〇月には重要工場周辺、企業整理で不要となる建築、勧奨などで転出する会社や個人の建物などを対象として疎開・転出を進めることが定められた。
 一二月には「都市疎開実施要項」が閣議決定され、東京都区部を他の地域とともに疎開実施の対象地区に指定、建物疎開を施設疎開(学校、団体、工場などの統合整理、地方転出)と、建築物疎開に分類し、指定地区内の建築物は除去するとした。
 そして、昭和一九年一月二六日、内務省告示第一八号により第一次強制疎開の対象地区が指定され、最初に渋谷駅前の密集地帯十数軒の取り壊しが二月一二日に始まった。二月一五日には、都区内でのあらゆる新築・増築が禁止となった。
 以後、内務省は三月から五月にかけて次のとおり疎開地区指定を行った。
 
 第二次指定(昭和一九年三月二〇日・内務省告示第一四三号)
 第三次指定(昭和一九年四月一七日・内務省告示第一七七号)
 第四次指定(昭和一九年五月四日・内務省告示第二一三号)
 
 建築物疎開は、疎開空地帯(防火帯)、重要施設疎開空地(重要工場附近広場)、交通疎開空地(主要駅附近広場および道路)、疎開小空地に分類され、七月までに都内五万五〇〇〇戸の疎開を完了した。これに伴い、前年一一月に下谷・本所・品川の三か所に設置されていた東京都方面疎開事業所が、四月に一五か所に拡充され、そのなかには芝方面疎開事業所(芝区役所内、京橋・麴町区も管轄)、麻布方面疎開事業所(麻布会館内、赤坂・渋谷・世田谷区も管轄)が含まれている。
 芝・麻布・赤坂区内は、疎開空地帯の第三次指定で、左のとおり多くの地区が指定にかかった。
 
 東海道沿線其の一(芝区新橋一丁目~同田町四丁目) 四〇m×三〇一〇m
 金杉芝園線(芝区金杉川口町~同芝公園一五号地) 六〇m×六一〇m
 古川渋谷川線(芝区赤羽町~渋谷区下通四丁目) 六〇m×四二七〇m
 白金天現寺橋線(芝区白金三光町~渋谷区豊沢町) 五〇m×六二〇m
 霞町線(麻布区笄町~同霞町) 八〇m×七一〇m
 神宮外苑前線(赤坂区青山南町二丁目~同青山南町二丁目) 一〇〇m×三〇〇m
 
 また、重要施設疎開空地は、第二次で芝区の五〇〇〇坪、第三次で芝区三七〇〇坪、麻布区三〇〇〇坪が対象となり、交通疎開空地(主要駅附近広場および道路)は指定なし、疎開小空地には第四次で芝区七か所、麻布区三か所の指定が記録されている。
 これに加えて東京都では六月に、東京都疎開小空地事業所を芝公園四号地に設置し、町会や隣組の防空強化を図るための小空地を作るために、希望者を募って間引疎開を開始した。一一月、政府も空家の防空強化のため、空いている学校などに防空従事者を常駐させることや、空家の間引疎開方針を決定した。
 

図4-3-2-1 四谷1丁目での建物疎開(昭和20年〈1945〉3月31日)
撮影 石川光陽