昭和二〇年の建物疎開

211 ~ 212 / 405ページ
 その後も続々と疎開に関する政府方針が打ち出される一方で、東京都は内務省による第一次~四次の強制疎開では不十分であるとして、各区に建物疎開事業部を設け、区長が執行することとした。地域疎開は防衛局が行い、間引疎開は区長が警察署長、消防署長、町会長などを聴取して選定し防衛局長に申達して、内務大臣が地区を指定し、町会が建物を除去した。地域疎開は消防道路築造地、主要駅、主要工場、重要変電所、主要車庫、重要通信施設などの周辺とされている。
 こうして都の主導による第五次強制疎開が一月から順次実施されるなか、昭和二〇年(一九四五)三月一〇日の大空襲があった。これを受けてさらに都内に一〇〇か所以上の新空地帯の設置が決定され、三月より第六次強制疎開の実施が開始される。これは密集地帯、重要工業地域に対し、幅一〇〇~二〇〇メートルの大空地帯を二十数か所、五〇~八〇メートルの小空地帯を八十数か所造り、防火および避難路とするものであった。
 港区においての最終的な実施坪数などの詳細は十分明らかになっていないが、実施された区域の概要は『新修港区史』の付図に示されているとおりである。